夕焼け 作 奥原水穂


 木造の駅舎を背に、宮本克弘は辺りを見回した。
 駅の横に、忘れられたように立ち尽くす、小さなポスト。
 使う人がいるのかと、疑問を感じる電話ボックス。
 ここを訪れたのは、何年振りだろうか?
 過去を懐かしみながら、宮本は歩き出した。
 駅前にあった、小さな商店はなくなって、代わりに国道沿いに店が建っている。
 そういえば、この歩いている道も、かつては砂利道だったはずだ。今では、しっかり舗装されて、あの頃とはすっかり様子が違っている。
 夏になると自転車でやってきていた、アイスクリーム屋は、まだ来ているのだろうか?
 不意に風に乗った潮の香りが、鼻をついた。
 この村には海があった。
 昔、まだこの村に住んでいた頃、よく自転車で海へいき、さざえやあわびを潜って採ったものだ。
 宮本は西に傾いた太陽を見、それから腕時計に視線を落とした。
 午後4時。夕暮れまでには、まだ時間がある。宿に行くのは少し遅れてもいいだろう。

 国道から村道へ入り、さらに海岸への近道である、松林に踏み込む。
 ここは昔と変わっていないようだ。
 潮の香りが強くなり、波の打ち寄せる音が近づくのに、軽い眩暈を感じた。
 過ぎ去った昔が、今、目の前に現れようとするかのような感覚。
 気のせいだと、頭を振って苦笑した。
 突然目の前に広い海が開けた。
 「ああ……」
 宮本は感極まって溜息をついた。
 荒い波に揉まれて、奇妙な形状をなす海岸の岩肌。
 海岸を埋め尽くすのは、砂ではなく、鋭い形の岩と玉石。
 海の表面を白波が立っている。
 あの最後に来たときと、まったく同じ海。
 「帰ったんだな」
 感慨に浸っていると、何処かで人の声らしきものが聞こえてきた。
 宮本はその声の主を求めて辺りを見回す。
 すると、離れた場所で宮本に向って手を振る、セーラ服が見えた。
 「克弘ー!」
 その声には覚えがあった。
 セーラ服の少女は、器用に石の上を飛び跳ねながら、宮本に近づいてきた。
 顔の横で二本のおさげが揺れている。
 「美夜じゃないか」
 「やっぱり克弘だ。久しぶりだね」
 「ああ……」
 随分長くこの村を訪れていない気がしたが、そうでもなかったらしい。
 現に美夜は、最後に別れた時のままの姿で笑っている。
 甘いような、切ないような気持ち。そして罪悪感。
 ぎくりとした。
 罪悪感? 何故そんなものを感じるのだろう?
 「どうしたの? 怖い顔だよ」
 言いながら気にもしてない様子で、美夜は大きな岩の上に腰を下ろした。
 宮本もそれに倣って隣に座った。
 「いや、なんでもないんだ」
 「ふうん……」
 唇を尖らせる美夜の様子に、思わず笑みが零れた。
 愛しさが溢れ出す。
 ずっと美夜のことが好きだった
 背中までの長い黒髪を、おさげに結った無邪気な、そして、田舎にはもったいないような、綺麗な顔。
 スカートの裾から伸びる、健康的で魅力的な脚。
 そして何より、真っ直ぐな性格が大好きだった。
 再会した今でも、未練では片付けられない、胸の高まりを感じる。
 そして、罪悪感……。
 「なあ」
 宮本は思い切って美夜に尋ねることにした。
 「オレ、美夜に何か悪い事しなかったっけ?」
 「え?」
 大きな瞳をさらに大きくして、美夜は宮本の顔を覗き込んだ。
 「忘れちゃったの?」
 やっぱり何かしたんだ。そう思いながら頷くと、美夜は見事な苦笑を浮かべた。
 「ま、忘れたんならしょうがないか」
 あっさり言われて、かえって気まずい思いが残った。
 美夜は口を閉ざしたまま、太陽が水平線へ飲み込まれて行くのを眺めていた。
 いつのまにか辺りは茜色に染まっていた。
 血のような濃い紅。
 ぎくりと背中が強張る。
 石を握ったまま、血に染まった手のひら。
 頭が鈍く痛む。
 「どうしたの?大丈夫?」
 覗きこむように宮本を見つめる美夜の顔が紅く染まっている。
 なのに、妙に青白く見えるのは何故だろう。
 波が岩に当たって飛沫を上げる。
 それもまた紅い。

 テレビのチャンネルを無造作に入れ替えるように、過去の光景が蘇る。
 茜色の空。
 血まみれの掌。
 色を失った美夜の顔。

 そうだ。アノ日、俺は美夜をこの手で殺したのだ。
 最初から殺そうと思っていたわけではなかった。
 あの日、美夜をこの場所に呼び出して、秘めていた想いを告げた。
 美夜は宮本の想いを受け入れてくれて、二人は今のように茜色の空を眺めていた。
 そうしているうちに、宮本の中に甘い誘惑が生まれたのだ。
 唇を求める宮本を、美夜は拒んだ。
 そして突き飛ばされた宮本は、鋭い岩に腕を傷つけられた。
 痛みと、滲み出した血が、宮本の気付かなかった別の人格を目覚めさせた。
 凶暴で残虐な人格を。
 手元に手ごろな石があったのは不幸な偶然だった。
 頭を殴られた美夜には、まだ意識があった。
 恐怖に彩られた美しい顔。
 それを汚す額を流れる血液。
 無垢で美しい聖なる乙女と、醜い獣となった己の姿が実に象徴的だ。
 しかし、醜い自分は社会的に忌むべき存在なのだと感じる。
 認めるわけにはいかない、もう一人の自分。けれど、現実は違えようが無い。
 ならば……。
 それを知る者を消し去ればいい。そして美しい彼女を、永遠に自分のものとするのだ。
 彼は、2度、3度と彼女の頭を殴りつけた。
 美夜が意識を失い、身動き一つしなくなっても、その手は止まらない。
 我に返ったときには、既に彼女の命は失われていた。
 何故、こんなに大事な事を忘れていたのだろう。
 思い出した今でも、他人事のように感じる。
 けれど、この手で美夜を殺したのは、紛れも無い事実なのだ。
 「愛していたんだ……!」
 自覚もなしに、宮本は涙を流していた。
 今、行動を支配しているのが誰なのか、自分でもわからない。
 その様子を美夜は、冷たい死人の顔で見つめる。
 「俺を連れていくのだろう?」
 死人は、その姿からは想像もできないくらい、優しく微笑んだ。
 「あなたは既に罰を受けているわ」
 ああ、そうだ。
 宮本は思う。
 彼の髪は既に白髪が混じり、学生服の似合う少年ではない。
 何十年という月日が彼の風貌を変えたのだ。
 そして肉体も……。
 末期のガンを告知された宮本は、自分が罪を犯した地に赴いた。
 無意識が懺悔を望んだのかも知れない。
 しかし……。
 自殺する勇気など彼には無かった。
 不意に美夜は立ち上がると、海へ向って、海面を駆け出した。そしてその格好のまま姿を消した。
 「待ってくれ!」
 宮本の中にいる誰かが叫ぶ。
 「俺を連れて行ってくれ!!」
 しかし、その声は美夜に届くことなく、ただ茜色の夕焼けが、断罪するように、血色に辺りを染め上げていた。


   終わり