夜咄    作 奥原水穂


 あれは、三年もまえになるでしょうか。私が旅した東北地方の話しです。

 海と山とに囲まれた、細長い土地に立ち並ぶ、茅葺きの古びた家屋や、それらの間に並ぶ田畑は、街暮らしの私には、とてものどかに感じられます。
 村の外れを小川が流れ、赤松の木々が色濃い影を地に落としていました。
 やかましい蝉の鳴き声さえも悲しげで、残暑を惜しむように聞こえます。
 小川に沿うように、丸太を並べた階段が、山へ向かって伸びていました。
 その階段を上り詰めると、古い小さな鳥居があります。そこをくぐりますと、やはり古い、今にも崩れそうな御社が正面にありました。
 そしてその御社に向かって2頭の神馬がいたのです。
 とはいっても、本物の生きた馬ではありません。
 よく、神社にある狛犬の代わりに石で作られた馬が立っていたのでした。
 馬は嘶くように、御社に向かっていました。
 まるで社に棲む、邪な存在から村を守っているように見えます。

 すると、いつからいたのか、社の前に女がいるではありませんか。
 派手ではありませんが、艶のある、あだという言葉の似合う美しい女性です。
 髪を銀杏に結い上げ、眉を落とした様を見れば、後家なのでしょうか。
 着物の色は桐の花に近い薄紫色で、その、淡い色合いを身にまとってすら、肌の白さが際立っていて、凄いようです。
 女はわたくしと目が合うと、にっこりと微笑みました。
「この御社に、何がいるのかご存知でしょうか?」
 声は女の方からかけられました。
「いえ……」
「御社に棲む鬼から村を護っているそうですわ」
「この大正の時代に鬼とは……。ここは随分と古風な土地なのだね」
 ほほ……。と、女が笑ったので、わたくしも一緒になって笑いました。
 旅の者である、若者を怖がらせようと、そんな話しをしたのだと思ったからです。
 「どうでございましょう。でも……」
 再び女が口を開いたとき、彼女の目が少しも笑っていないのに気付き、頬が強張る思いがしました。
 そして女は、そっと私の手首を白い指先で掴んだのです。

 真白い指は色だけでなく、雪のように冷たい。そこから体の温もりが奪われて行くようです。
「この御社の中をご覧になれば、鬼と呼ばれているものの正体がわかるかもしれませんわね」
 妙に含んだ言葉と、何かを探るような視線が向けられると、とたんに、女が薄気味悪く感じてきます。
 いつしか、社の境内は夕映えに赤くそまっています。
 あれほどやかましく鳴いていた蝉の声も途絶え、少し前までは、汗ばむような陽気であったのに、急に寒気を覚えました。
 いえ、体が寒いのではありません。
 空気が……何と言うか、違うのです。
 鬼の棲むという御社は不気味だが、女はもっと恐ろしい。 
 わたくしは、女の手から逃げるために御社へと向ったのです。

 さて、件の御社ですが、かなり永い間人の手が入っていなかったようで、ひどい荒れ様をみせていました。
 そのくせ、いくら力をこめてもギシギシと軋む音がするだけで、一向に開く気配もありません。
 しばらくそうしているうちに、閂がかかっているのだと、合点がいったので、諦めようとしたときです。
 ぷん……と白粉の香りがすぐ近くでするではありませんか。
 はっと見れば、女は吐息がかかるほど近くで、扉を見つめていました。
「閂をかけてまで、己が罪を隠したいか」
 恨みがましい声が、紅を差した唇から零れます。
「鬼と呼び、虐げられた夫の真の姿、今こそ白昼の元に明かされましょう」
 すると、どういうことでしょう。あれほど力を入れても開かなかった扉が、まるで、自らの意思で受け入れるかのように、独りでにひらくではありませんか。
 そして、うながされるまま中を覗き込んだわたくしは、鬼と呼ばれるものの正体をみたのです。
 中にあったのは、一本の古木です。
 そしてそれには、鬼ならぬ、龍が彫られていました。
 その見事さといえば、鱗の一枚、髯の一本から、木を巡るように天へと向う動きまでも、命あるかのようです。
 さぞかし名のある彫り師の作であろうことは、素人目にも明らかです。食い入るように見つめていると、龍の背に人が乗っているのが目にとまりました。
 着物姿の女でございます。
 その顔をじっと見ていると、わたくしは
「ああっ」と声を上げました。
 なんとその顔は後ろにいる女とそっくりだったのです。わたくしは、予感を覚えながら後ろを振り返りました。
 いつのまにか夕映えは紫の薄明かりに変わっています。あの女の着物と同じ色です。
 宵闇の近づく境内で、わたくしはただ一人でそこに立ち尽くしていました。
 その耳にあの女性の声が聞こえてきました。
「閂をあけるには貴方の手が必要だったのですよ。これで夫と共に生きていけますわ」

 ところで、わたくしが、このような話をしたのは、そこに座る御婦人の着物と白粉の匂いが、あの女を思い出させたからです。
 見れば美しさまでよく似ております。違うのは髪を丸髷に結っておいでだというところでしょうか。
 はて、この集いが始まったときにはご婦人はいらっしゃらなかったと思いますが、いつからそこにおいでなのでしょう。
                  
                      終