
プロローグ 雪がすべての音を吸い込む、静かな朝。 どこかで、野鳥の鳴くのが聞こえるのと、屋根から滑り落ちた雪の音以外は、何も聞こえない。 突如賑やかな笑い声が、静寂を打ち破った。 「お兄ちゃん、雪投げしようよ。雪だるま作って!」 まだ小学校に上がったばかりだろうか、少女は子犬のように歳の離れた兄に抱きついた。 少年は中学生くらいだろうか? 少女の無邪気な様子に目を細めている。 「舞、面白い事しようか」 舞の好奇心に満ちた瞳の前で、少年……蟻田修は両手を大きく広げ、そのままの姿勢で背後から雪の中へ倒れこんだ。 「お兄ちゃん?」 不安そうに覗き込む眼差しに、笑顔を返して、のっそりと修は起き上がった。 自分の埋もれていた場所を指差して、舞にそっと耳打ちする。 「ほら、人型だよ……」 舞の顔がぱあぁと輝く。嬉しそうに人型のまわりをぐるぐる回ると、思いついたように、修にかけより、袖口を引っぱった。 「ね、今度は一緒に、お顔の方から倒れてみよう」 「え…… 顔からかい?」 修の態度が煮え切らないのも当然だろう。頭からならまだしも、顔から倒れれば、当然雪に顔が埋もれる事になる。 しかし、うきうきと、心を弾ませている舞の、希望を砕くのは心苦しい。 修と舞の二人は、並んで顔から雪の中へと倒れこんだ。 「冷たい!!!」 二人は同時に起き上がると、同じ言葉を吐き出して、手袋をつけた両手で顔を擦った。 雪に描かれた、二つの顔を交互に覗いていた舞は、修を見上げると、むっつりと呟いた。 「ずるい。お兄ちゃんの方が綺麗なお顔してる。あたし、鼻ぺちゃだ!」 その言葉に、修は笑い出した。 「舞はまだ、子供だから。これからどんどん綺麗になっていくさ。それに、僕は男だから綺麗じゃなく格好いいだよ」 優しい兄との幸せな時間。これが永遠に続くものと信じていた。 §1 舞 時間は流れ、舞は二十一歳になっていた。 かつて兄であった修が言ったとおり、美しいと呼ばれるのが当然の女性。 気品すら感じさせるその美貌は、兄の修とどこか似ている。 鏡に姿を映す度、そこに兄を感じる事もある。 もう、どこにも生きていない美貌の兄。 大学受験のその日、乗ったバスが事故に巻き込まれ、修はその生涯を閉じたのだ。 悲惨な事故であったわりに、修の顔は奇跡的に美しいままであった。 舞にとって、優しかった兄は永遠に変わらぬ美しさを持ちつづけている。 兄は理想像なのかも知れない。もしそうであるなら、残酷な理想だ。 それでも……と、思う。 いつか、兄のような男性に巡り合える事を。それは祈りに似ている。 兄がいなくなって、この家は舞の城となった。 母はもう、ずっと幼いころからいない。父はいるが、出張が多くて月に2、3度しか帰ってこない。 だが、彼女は寂しいと感じる事は無かった。 彼女の周りにはいつも、たくさんの友達がいたからだ。 だから、一人で家にいても寂しくはない…… 蟻田舞という女性は、大学中でも評判の美少女だ。 線の細い身体に、どこかとなく漂う影がたまらないと、友人達は言う。 しかし、たいそうな面食いという噂だ。 彼女に興味を持ったのは、そんな噂からだった。 誠治が初めて舞を見たのは、図書館だった。 舞が読んでいる本のタイトルまでは見えなかったが、小説や論文でないのだけは、わかった。 異常に写真が多いのだ。誠治は美術書だろうと当たりをつけた。 なるほど、かなりの美少女だ。 多少中性的な雰囲気はあるが、黒のロングスカートを見なくても、性別を間違える事はないだろう。 特に印象的なのは、真っ直ぐ伸びた漆黒の髪。 背中を流れる黒髪に、指を絡めたなら、どんな気分だろうか。 これほどの美少女ならば、面食いでも仕方ないだろう。 自分で言うのもおかしな話だが、誠治は自分の外見に関して、多少ならぬ自信があった。 明るく染めた、少し長めの髪は、肌の色によく似合っていると思う。 身長も183pと、長身だし、欠点といえば、平均を大きく裂く体重と、学業の成績くらいである。 さて、自分は、彼女の眼鏡に適うだろうか? いつのまにか、関心は妙な方向へと向いていたが、彼の大らかな性格はその微妙な変化を気にもとめなかった。 行動の早さも、彼の特技といえよう。 誠治は舞を驚かせないように、正面から近づき、最上の笑みを浮かべた。 「何を読んでいるの?」 「……?」 読書を邪魔されたのを不快に思うよりも、突然声をかけられたのに驚いて、舞は顔を上げた。 校内で美形で通っている学生が、舞の読んでいた本を、上から見下ろしていた。 「これは……面?」 「ええ、色んな面があって面白いのよ」 「こういうのが好きなの?」 改めて問われて舞は苦笑した。 「そうなの。少し変わっているのよ、私」 「そんなことないよ。良い趣味だと思うよ」 「本当!?」 何処か戸惑いがちだった舞の顔がぱあっと輝いた。 舞に興味はあったが、恋愛感情など無かった誠治ですら引き込まれそうな笑顔だ。 「あのね、家にも幾つかあるの、良かったら見に来る?」 一気に言ってしまってから、調子に乗っているのに気付いて、舞は俯いた。 その仕草の愛らしさに、誠治は場所を弁えず、大きな声で笑い出す。 噂は噂だ。浮世離れした美女を思い浮かべていたが、どうやら彼女は美しい外見を除けば、普通の、一般の少女達と何一つ違わぬようだ。 「そうだね。見せてもらおうかな?」 誠治は自分の思い込みと、実際の彼女の違いに苦笑しながら、そう言った。 「随分と山奥に住んでいるんだね」 「うん・・・。でも、慣れると静かで結構住みやすいよ」 会話を交わしながら、ショートブーツは失敗だったかもしれないと、舞は感じていた。ブーツの裾から忍び込む雪の冷たさに、眉を寄せる。 「その辺に車止めておいて」 振り返り、車の運転席に座る誠治に声をかける。 反応を確かめると、鞄を探って鍵を取り出した。ひんやりと冷たい感触がする。 誠治は車を止めると、順番待ちをするかのように、舞の後ろに立った。 誠治からすれば、大概の女性は小柄だといえるが、彼女はさらに小さい。 彼の目に、舞の美しい黒髪が良く見えた。 案内されるままに居間に通された誠治は、なんとも所在なさげに辺りを見回す。 特に際立った調度品はない。テレビにソファー、小さなテーブル。飾り棚に並んだ輸入雑貨が女らしいといえよう。 どこにでもある普通の居間だ。 「ちょっと待っていて、今、珈琲入れてくるから」 「あ、お構いなく……」 社交辞令を交わしながら、お互い何処かよそよそしい。そのぎこちなさが新鮮に感じる。 「それより、トイレ貸してくれないか」 その言葉になぜか舞は恥じらいを見せた。 「トイレ……ね。廊下出て右の突き当たりの左側がそうよ」 それからくすくす笑って付け加える。 「間違って浴室に入らないでね」 舞の親切な案内で、トイレの場所を間違える心配は無かった。 帰ってくると、珈琲の香ばしい香りが居間に漂っていた。 「コーヒーメーカーだね」 「やだ、わかっちゃうの?」 くだらない雑談を交わすうちに、時間は瞬く間に過ぎて行った。 「そうだ。面を見せるんだったわね」 舞がそう切り出したのは、帰宅して1時間も過ぎた頃だった。 「ここが、仮面の部屋よ」 一歩足を踏み入れた瞬間。誠治は金縛りにあったかのように立ち尽くした。 「すごい……」 それが誠治の精一杯の言葉だった。 壁という壁に、命あるもののように、仮面が並んでいる。 面独特の無表情とも感無量とも取れる顔が、一斉に誠治を見つめていた。 その部屋の一番奥に、書斎を思わせる机があり、その上に丁寧に紐で縛られた漆塗りの箱が置かれていた。 誠治の視線に気付いた舞が、困ったように微笑んだ。 「それだけは特別で、見せられないのよ。ごめんね」 「いや……」 そう答えながらも、誠治はその箱から目が逸らされなかった。 「面食いだって聞いてたけど、とんだ勘違いだったんだな」 独り言のつもりだったが、その言葉はしっかり舞に聞こえていた。 「あなたの面も欲しいわ」 冗談とも取れる口調で舞は言う。 「でも……面よりももっとあなたを知りたい」 願っても無い言葉だった。 図書館での一件以来、誠治も舞いに単なる好奇心以上のものを感じていたからだ。 「君を好きになったと言ったなら、軽い男だと軽蔑するだろうか?」 「それなら、初対面の男性を家に上げるなんて、軽率な女だと思う」 二人の中に甘い空気が流れた。 誠治は舞を両手で抱きしめた。小柄な舞は誠治の腕の中にすっぽりと収まる。」 その時、異変が起きた。 始めは気のせいかと思った。 壁を埋める仮面がすべて自分を見ている。そんなはずがない。 しかし、次に起こった事は、気のせいでは済ませられない。 漆塗りの箱を縛っていた紐が、音も無くほどけて行く。 そして、あろうことか、箱は誰の手も触れぬのに開かれて行くではないか。 舞は誠治の腕の中にいたので、その様子を見ることは無かった。 みたのは誠治ただ一人。 異常な事が起こりつつある。 予感めいた感覚が誠治の動きを封じた。 そして……。 壁にかかっていた面が、一斉に誠治目掛けて空を飛んだ。 逃げ出そうにも、入り口は面によって覆われている。 その時になって、舞も異常に気が付いた。 「やめてお兄ちゃん!」 舞はこの異常の理由を知っているのか。 カタン……。 漆塗りの箱から、面が転がり落ちた。 面はゆっくりと浮かび上がり、人間の顔の位置に落ち着いた。 美貌の仮面。 いや、それは、最も美しい、舞の兄のデスマスク。 『だめだよ、舞。おまえは、私の大切なお姫様なんだ。世俗に汚れた男の手に渡すわけにはいかない』 「私はお姫様なんかじゃない! もう仮面の……偽りの友達なんかいらない!!」 ぱああああああぁん! それまで扉を守っていた面たちが命を失って地に落ちる。 「早く外へ!」 誠治は舞の手を引いて、家を飛び出した。 雪に足を取られながら、車へと向う。その時。 かつて兄であったデスマスクが政治の足に絡みつき、誠治は正面から雪の中に倒れこんだ。 「お兄ちゃんやめて!この人を仮面にしないで!」 デスマスクは、その死んだ表情に驚きを浮かべた。笑っているようにも見える。 不意に一陣の風が雪を舞い上げた。 そして、デスマスクであったものは、かつての修の微笑を浮かべて舞い散った。 後には雪に濡れた誠治と、涙を流して立ち尽くす舞の姿のみが残された。 「大丈夫・・・じゃないわよね」 げほげほと咳き込みながら立ち上がった誠治は、身体についた雪を払い落とすと、おどけた様子で笑った。 「身体は丈夫なほうなんだ」 そんな誠治に、舞は抱きついた。 涙に濡れた頬が、誠治の胸に埋まる。 「良かった・・・無事で。本当に良かった……」 舞の話によると、下心を持って近づいた男たちは、修のデスマスクの力によって、顔を雪に埋められ仮面となったらしい。 雪に埋められながら、誠治が無事だったのは、奇跡のようなものだ。 それとも……。 誠治は思う。 修は故意に自分を仮面にしなかったのではないか? 修は愛する妹の為に『仮面』という友人を与えた。 しかし、妹に拒絶され、修は仕事を中断した。 誠治の仮面を作るという仕事を。 修の行動は、舞の心の奥の願望だったのかもしれない。 失ってしまった兄を仮面として残していたのが、その表れか。 けれど、最後のとき、彼女は『仮面』である兄ではなく、『現実』の誠治を選んだ。 そして修のデスマスクは失われた。彼女が『仮面』に囚われることはもうないだろう。現実の誠治がいる限り。 「蟻田さん。まだ、俺の仮面が欲しい?」 しっかりと腕に彼女を抱きしめながら、誠治は問い掛けた。 腕の中で首を振る舞の髪が、流れるように揺れるのが愛しいと思う。 誠治自身がこれからは、彼女を守り続けるのだ。 了 |