風 花 作 奥原水穂

一章 夢と現実の狭間 プロローグ 雨に濡れたアスファルトの上を車が走る。 ザザー…… タイヤがアスファルトを走り抜ける音は、まるで波の音のようだ。 志帆は浅い眠りの中で、夢の中にいた。 そりたつ岸壁。そこに建つ白い洋館。 ブルーのスレート屋根。 繰り返し見てきた夢だと、夢の中で志帆は思った。 志帆はその、洋館の中に入っていく。 吹き抜けの玄関。中央には大きな階段。そして赤い絨毯。 一階の居間へと向かう。そこにはあの男性がいた。 いつも傍にいた兄のように慕った彼。 RRRRR…… 電話の音で目を覚ました。 今日は休日。目覚ましはかけていない。 妹、真帆の声が受話器から聞こえた。 「優がね、私たちの誕生日に襟裳に連れてってくれるんだって。百人浜にも行けるよ!」 優は真帆の恋人だ。 ざわりと首筋に寒気が走る。 夢は現実になるのだろうか? 夢で見た洋館がより、リアルな存在として感じられる。 嬉しいのか、不安なのかわからず、それでも「楽しみだね」と口にする。 真帆の嬉しそうな様子を不安に塗り替えないために。 §1 百人浜 志帆と真帆の双子の姉妹は、優と共に、二人夢で見た土地、百人浜へと車で向っていた。 百人浜に着いたときには深夜だったか、光に照らされた巨大なモニュメントが、ここがその地だと教えてくれる。 ふたりは、車を降りると、優に、二人で散歩してきたいと言った。 「だいじょうぶなのか?」 すらりとした長身の、精悍な顔立ちをした青年が眉をよせる。双子より4歳年下の、真帆の彼氏だ。 「全然オーケー!」 不自然な日本語で、真帆は手を振ると、志帆と共に浜のほうへと歩き出した。 光のない、暗黒の世界。 真帆はジッポーのライターを取り出して、シュッと火を灯す。 揺らめく炎の周囲が僅かに明るくなる。 二人は足元の危うさから、手をつなぎ、よたよたと海岸を目指した。 ザザーン…… 波の音が大きい。 今にも海に飲み込まれそうだ。 二人は不意に怖くなり、その場に立ち尽くした。 どちらが先に煙草に火をつけただろう。 恐怖を打ち消すべく、二人は煙草の煙をゆっくりと吐き出す。 「おーい!」 「おおーい!」 二人の体が強張った。崖の方から声が聞こえたように感じたからだ。 「……優だ」 真帆の言葉に、志帆の肩から力が抜ける。しかし……。 「おーい!!」 志帆の様子に気付かず、真帆が大声を張り上げる。 「どこよー!!」 心配そうな声に、真帆は悪戯っぽく苦笑し、声を上げた。 「ここ!!」 まさに真っ暗闇なのだ。見えるはずがない。 「戻ろうか」 「……う、うん」 真帆の言葉に、志帆が、どこか虚ろに頷く。 あの声、本当に優の声だけだったのだろうか? 二人の姿が見えると、優は駆け寄り、二人を叱った。 この暗闇で姿が見えなくなることの危険をわかってない。 そう思うと、無邪気に謝る姿すら、小憎らしい。 「あ……」 急に思い出したように志帆が声を上げて、優の言葉を遮った。 「今日、誕生日だよ」 「え……ほんとうだ!」 真帆は腕時計に目を落とし、叫んだ。 志帆と真帆は目を合わせて微笑みあった。 「誕生日おめでとう」 「23だろ?めでたくないべや」 年下の優が投げやりに呟くが、それは二人には聞こえない。 夢はいつか叶うだろうか? 双子の見た夢の切っ掛けはある小説だった。 それは、百人浜を舞台に、ミステリー仕立てにしたどこか、ファンタジー色のある物語だった。 それを読んだ二人は、夢の中の光景との類似点に鳥肌がたった。 「波」「崖」「館」 たった三つの類似点。しかし、それでも、二人はそれに惹かれた。 ただの夢にしてはリアルな感覚。でも、二人はそれを、幻想と決めていた。 いや、志帆は夢が現実なのをを確信していた。 「あれ?」 最初に気づいたのは真帆だった。 「ちょっと雪だよ。もう3月も終わりなのに」 「ねえ、何処に泊まるの?こんな時間だよ」 志帆がぼやくのも無理は無い、もう0時過ぎなのだ。 「やばくない?」 「雪が酷くなってきたよ」 三人は慌てて車に乗り込んだ。 エンジンが掛かってたお陰で車内は暖かい。 しかし、外の雪はいよいよ本格的になってきている。 「どこか泊めてくれるとこ探さなきゃ」 呟いた真帆の目に、街灯とは明らかに違う光が見えた。 「駄目元で行って見ようよ」 反対するものは誰もいない。優は車をその光の方へと走らせた。 それが悪夢の始まりとも知らずに。 §2 夢の館 凍りつくような雪の中で、その灯りだけが唯一の温もりにみえる。 辿り着いたのは、古くなった蔦のからまった白い洋館。 志帆は眩暈を感じた。蔦が絡まってなければ、夢の洋館とよく似ている。 「まさかね」 真帆の言葉に、同じ事を考えていたのを知った。 優は車を降りると、玄関を激しく叩いた。 「すみませーん!」 寒さがぶり返したような気がする。こんなところで凍死するのはごめんだ。 真帆も車を降りて声を張り上げる。 「誰かいませんかーー!!!」 すると、軋んだ音を立てて、扉が開いた。 そこに立つ一人の男性。 志帆は再び眩暈を覚える。私は知っている、この人は……。 「どうなさったんですか?」 この声。忘れはしない。夢で毎夜聞いていた声。 「雪で車が進められなくて、何しろ夏タイヤだし。それに、こんな時間じゃ泊まるところもないし。ご迷惑じゃなければ、一晩泊めていただけませんか?」 図々しい頼みを、その男性は快く引き受けた。 「それは大変ですね。たいしたもてなしはできませんが、どうぞ暖まってください」 ほっとした空気が流れた。 三人は暖炉のある居間へと通された。 壁に掛かった一枚の絵に志帆と真帆はくぎ付けになった。 夢で見たもう一つの洋館が崖に建っている。 「どういうこと?」 呟きは同時に出た。 「その絵が気に入りましたか?もうその家はありませんが、よかったら、その場所を明日案内しましょう」 「お願いします」 間髪入れずに答えたのは真帆のほうだ。 「それより、飲み物が冷めますよ」 邪気の無い笑顔で男は、一人ずつカップを手渡す。 一口飲んだ真帆が、ほっとため息をつく。 「これ、コーヒーメーカーじゃありませんね」 「ええ、サイフォンです」 そこで、真帆ははっと気づく、志帆は珈琲が飲めない。 志帆は、カップを手に震えていた。 どういうこと? 志帆の傍に行って、カップを覗き込んだ真帆は凍りついた。 「志帆さんは、ミルクティのほうがいいんですよね?」 初対面の筈なのに、何故それを知っているのか。 いや、初対面じゃない。夢で会っている、でも……。 優よりは低いものの、それでも長身の部類にはいるだろう姿を、恐ろしいものを見るように見上げた。 彼は腰の低い、穏やかな様子で真帆達の相手をしている。それはさながら主の来客をもてなしているように見える。 志帆は思い切って声をかけた「裕也さん」 「はい」 ああ、あの夢はただの夢じゃない。彼は裕也さん。そして私は……。 「何、知り合いだった?」 何も知らない優が怪訝そうに言う。 「ううん、さっき名前きいたの」 嘘だった。しかし、裕也も真帆も否定しない。 「私、疲れちゃったんで、先に休みたいんですけど」 「じゃあ、部屋へ案内しますね」 階段を上がり、一番左の部屋へと向かう。志帆は動悸を感じた。 その部屋は、あの夢の私の部屋。 「あなたの部屋です。部屋のものは自由に使ってください。着替えもクローゼットにありますから」 「あの……」 「はい?」 「あ、何でもないです。ご親切にどうも……」 改めて部屋を見回す。 八畳くらいのフローリングの部屋。 壁に沿って位置取っているのは、薄いピンクの布団の掛けられたベットだ。 窓際には机が置かれ、ノートや本が綺麗に整頓されている。 もう一つの壁には備え付けのクローゼット。 何の変哲も無い、女性らしい部屋。 いや、ベットから上に出た壁に描かれた一枚の絵。 私……? 眠る少女の姿がそこにあった。志帆を幼くしたような顔立ち。 志帆と真帆は双子だが、全体の印象を除くと、余り似ていない。 そして、眠る少女は志帆に似ていた。 志帆はぞっとした。 これは夢なのだろうか? 裕也は言った。「あなたの部屋」だと。 志帆はクローゼットを開けた。 そこには今の彼女なら着ない、夢の中の自分が着ているような、ワンピースなどがかかっていた。 志帆は恐怖を感じて、クローゼットの扉を閉じた。 眩暈がする。頭も痛くなってきたので、着のみ着のままベットへと滑り込む。 一階では宴会でもしているのか、笑い声がここまで聞こえる。 その声を聞きながら志帆は眠りへと入っていった。 §3 夢の記憶 五月の軟らかい日差しが居間に差し込む。 部屋の中央に置かれたソファで、少女は笑っていた。 15歳になるかならないかの少女だ。 「裕也さん、綺麗にしてね」 「はい、はい」 青年は少女の色素の薄い髪を纏めながら苦笑する。 「今日は元気ですね、葵《あおい》さん」 「だって、妹がくるのよ。そりゃ母親は違うけど、私の妹よ」 はしゃぎながら葵と呼ばれた少女は言った。 「それに私、歳の近い女の子の友達いないから……」 落とした声は、彼女の緊張と不安を映して、どことなく寂しげだ。 「私も葵さんに会うときには緊張しましたよ」 柔らかい笑顔を浮かべて、裕也は葵の顔を覗き込んだ。 「仲良く出来るかしら?」 不安そうに俯くと、長い睫が影を落とす。 葵は美少女といっていいだろう。 色素の薄い髪と瞳、ほっそりした形の良い鼻梁、長い睫、病的に白い肌、そこに咲いた薄紅色の唇。 実際、彼女は健康とは縁遠かった。幼い頃から事あるごとに熱を出し、ベットに臥せっていた。 当然学校へは行けず、友人もいない。 いるのは、兄のような辰巳裕也ともう一人……。 「大丈夫ですよ」 ノックの音に、葵と裕也は同時に扉を見つめた。 「亜希さんをお連れしましたよ」 「入っていただいて」 ああ……。 そこに立つ少女は葵と対照的な美しさを持っていた。 日に焼けた肢体はのびやかに、少年を思わせる。 眼差しはきつく、これから起こることを見逃すまいとしてるかのようだ。 なのに……姉妹とはこれほど似るものなのだろうか。 明らかに正反対でありながら、二人は鏡うつしのように似ていた。 部屋には微妙な緊張の空気がある。 「始めましてになるのね、姉妹なのに変な感じだわ。私は葵」 「……亜希」 ぶっきらぼうに亜希は呟いた。それで用件は全て済んだといわんばかりに。 周囲は困惑した。その空気を破ったのは、亜希を連れてきた青年……裕也と同じくらいの歳だろうか?宇野洋だった。 「亜希さん、疲れただろう?部屋に案内するよ」 亜希は頷いた。 志帆は頭痛のする頭を抱えて起き上がった。 昨夜は着替える気力もなく、昼間と同じ姿だ。 どうしようか?考えて着替えるのをやめて、姿見に向かった。 癖のある茶色い髪は脱色したものだ。本来は真帆と同じストレートの黒髪をしている。 間違えられるのを嫌った志帆がその姿になったとき、二人は夢を思い出して、苦笑した。 あんな美少女じゃないけどね。 呟いて、志帆は部屋を出て居間へと向かった。 いくらこの館があの夢に似ていようと、青年の名前が同じだろうと、夢は夢だ。 単なる偶然に過ぎない。 雪が止んで、あるいはタイヤを交換して、札幌帰れば今までの日常が待っている。 「おはようございます」 居間には裕也がいて、彼は昨夜の酒宴の後片付けをしていた。 「手伝います」 「駄目ですよ。あなたはそんな人じゃない。ねえ、葵さん」 志帆は愕然とした。言葉が出てこない。 あれは夢ではないの?それともこれが夢なの!? 昨夜の奇妙な感覚が戻ってきた。 寒いわけでもないのに、鳥肌がたつ。 「裕也、脅かすなよ、青褪めてるじゃないか」 背後でした声に驚いて志帆は振り返る。 「彼女はまだ完全に目覚めてないんだから。ね?」 無邪気そうな笑顔は宇野洋のものだ。 しかし、神経質そうな眼鏡の奥の瞳だけが笑っていない。 何かを見通しているかのような、その瞳。 彼女の全身から力が抜けた。耳元で血液の流れるさらさらとした音が聞こえる。 気を失った志帆の体を洋は抱きとめ、耳に囁きかけた。 「お休み、葵さん。目覚めたら全て思い出すよ」 §4 襟裳岬 翌日の朝、昨日の雪は嘘のように溶けていた。 まるで、雪があの屋敷へと導く為だけに降ったかのように。 襟裳の岬は風が強い。 真帆は突風に煽られて、優へとしがみ付く。 「仲がよろしいんですね」 裕也に揶揄されて、真帆は優から離れた。 恋人同士なんだから、別にかまわない筈なのだが、裕也の前でそうするのは、嫌な感じがしたのだ。 全ては夢のせい。 でも夢は夢。夢と同じ名前の人が出てこようと、夢はただの夢にすぎない。 朝、志帆が考えたのと同じ事を真帆は考えていた。 でも、志帆はどうだろう? 彼女は真帆より感受性が強い。今朝も眩暈を起こしたとかで、屋敷で留守番だ。あの、どこかいけ好かない洋という男と一緒に。 本当は、志帆と来たかった。 崖の館は無かったと、二人で苦笑したかった。 「あの、建物のあるあたりに、屋敷があったんですよ」 「……え?」 真帆はぎくりとした。それは夢の館のあった場所だからだ。 「何か、中に入れるようだな」 言うなり優はどんどん一人で先に向かう。 「ちょ、ちょっと優!待ってよ!!」 二人の様子を暖かく見守っている、裕也の瞳が寂しそうに見える。気のせいだろうか? 風の館は神秘的な雰囲気をかもしていた。 風のハープは不思議な、でも自然な音楽を奏でる。 展望室からは、アザラシの姿が小さく見えた。 風の不思議を感じながら、3人は回廊を巡った。 志帆も来れば良かったのに……。 また真帆は思った。 かといって、寝込んでる志帆を無理やり連れて来れる訳にはいかない。 仕方ないか……。 回廊を出た真帆は、改めてこの建物の建つ土地を眺めた。 切り立つ断崖。唸り声に聞こえる強い風。 ここは、あの夢の土地なのだろうか? 確かに似ている。 でも、こんな近代的な建物が建ったり、土産物屋がならんでいては、本当にあの場所と断言するのは難しい。 わざと現実を夢に結びつけてるようにも感じる。 夢に捕われすぎだ。 「おい、百人浜に行くぞ!」 優の声に我にかえると、優と裕也が車に乗り込む所だった。 襟裳岬から車で5分位の場所に、百人浜はあった。 昨夜見たモニュメントが、昼の日差しの中、佇んでいる。 夜の照明を落としたモニュメントは、どこか寂しげだ。 浜に続く道は、駐車場から意外と距離がある。 夕べはもっと近くに感じたのにな。 心の内で呟きながら、優と並んで歩く。 塔が建っていた。 不思議な感覚。 二人がその建物を上ると、どうやら展望台だったらしい。 それにしては、ぞんざいな造りだ。 下にまだ低い木の苗が並んでいた。 砂浜が広がるのを抑えるために、好意で植えてるようだ。 箱に小銭を入れて、苗を持つ。 優は立てかけられていたスコップを片手に、真帆を待っていた。 二人は並んで苗を植えた。善意なんてものじゃない、なんとなく、そうしなければいけないような気がして。 そんな二人を裕也は暖かく見守っている。 苗を植えると、本来の目的である浜へと向かった。 意外と遠い。 昨夜煙草を吸っただろう場所には、大きな流木があった。 波の音が大きい。吸い込まれそうな波の音。 でも、そこは普通の砂浜だった。 どこかでがっかりしながら、真帆は海岸沿いを辿る。 夢の欠片を探して。そんなものありはしないのに。 3人は悲恋沼へとむかった。 浜から道路を渡った向かいがわに沼はあった。 田んぼ? 看板がなければそう思ってしまいそうな、四角い沼だった。 アイヌの娘の悲しい伝説など、みじんも感じさせない。 一通りの観光を終えると、3人は館へと戻った。 §5 夢と現実 「ただいまあ」 どこか疲れた声で真帆は呼びかけた。 「おかえりなさい」 階段の上から意外と元気な志帆の声が聞こえる。 見上げた真帆は、驚愕のあまり、退き、優にぶつかった。 志帆は紺のワンピース姿でそこにいた。 茶色い巻き毛をサイドでまとめて、傍らに洋をはべらせて……。 その姿はまるで夢の葵そのままだ。 (洋さん、葵さんを憎んでるんでしょう?私もよ) 突然言葉が浮かんだ。 「へえ、似合うじゃん」 無邪気な優の言葉も虚ろに響く。 「どうしたの?幽霊でも見たような顔よ」 口調もどことなく、いつもと違う。 「それより、観光はどうだったの?」 「まあまあだったよ」 その言葉に、我に返った真帆は、驚いたのを恥てぞんざいにこたえる。 自分の声の冷たさに、慌てて、付け加える。 「襟裳の『風の館』は、結構面白かったけどね」 「そう、私も行きたかったわ。疲れたでしょう?裕也さん、お茶にしましょうよ」 当たり前のように、志帆は言った。 女主人が侍従を使うように。 「そうですね」 これを受けた裕也も当然のように、それに従う。 夢の中の葵と裕也のように……。 (亜希は裕也さんが好きなんでしょう?) 蘇る夢の葵の声。 あれは夢じゃないのか? 目の前にいるこの女性は志帆?それとも葵? 「どうかしたのか?」 優が問う。様子のおかしい志帆と真帆に気づいているのだろうか? 「話しても信じないよ……」 泣きそうになりながら、真帆は呟いた。 「いいから、話してみろよ」 「…後で部屋にいく……」 そうとだけ言うと、真帆は居間へと向かった。 珈琲の香りが玄関まで届いている。 優は真帆の後を追って、居間へ入って行った。 「ねえ、志帆その服……」 「ああ、着替え無いって言ったら、クローゼットから洋さんが選んでくれたの」 誰の服!? そう問いたいのを、真帆は我慢して続ける。 「印象変わるね」 「そう?」 微笑ながら、志帆は立ち上がると、くるりと一回転した。 「私は、らしいかなって思ってるのよね」 じっと真帆の目を見て、志帆は言った。 わかってるんでしょう?とでも言いたげに。 (始めましてになるのね。姉妹なのに、変な感じだわ。私は葵) 真帆は頭の中の声から逃れるべく、頭を振った。 ふっと、志帆が真帆の傍らに立つと、耳元に唇を寄せる。 「思い出して。私も裕也さんも、洋さんも待ってるのよ」 ぞくりと背中に悪寒が走る。 志帆を振り返った時には、彼女はもう、裕也達との談笑に入っていた。 思い出す?何を?いいえ。私は知っている夢の内容を。夢がかつて現実であったことを。 思い出したくない。何もかも。そう、私は忘れたい。現実に生きて生きたいのだ。 「大丈夫か?」 優の言葉に顔を上げる。 優。 彼は現実。この人の手を離してはいけない。 そっと真帆は優に体重を預けた。 この人こそ、夢と現実の掛け橋。 絶対にこの手を離しはしない。 |
2章 悪夢の輪廻 §1 夢の共有 夕食後、真帆は優の部屋にいた。 夢が現実に取って代わろうとしている。その不安を優に告げるために。 それはただの夢だった。 志帆と真帆の作り出した妄想だったかもしれない。 しかし……。 偶然訪れた館は、それをただの夢にしてはくれなかった。 夢で見た景色。 夢で聞いた声。 そして、志帆の変化。 夢が現《うつつ》と取って代わろうとしている。 それは不安だろうか?恐れなのだろうか? 事実ではないかもしれない。けれど心の奥底に仕舞ってあった記憶。 志帆は変わった。それは館に来てからだろうか?それとももっと以前から? 不安定な記憶。そんなものに囚われるのは無意味だと感じていた。 でも、志帆の変化も理解できる。 この館には人の心を不安定にする魔法があるようだ。 §2 悪夢の再現。 亜希に与えられたのは、二階の一番奥の部屋だった。 窓越しに荒れた海が見える。 その部屋は、亜希にとっては馴染めないものだ。 彼女にとって、「本当」の居場所は、母と二人暮らしたお風呂もない、長屋だった。 何でこんな事になったのだろう? 亜希はベットに大の字になって倒れこんだ。 母が、愛人であるのは、何となく感じていた。 だから、大多数の人が送る、父母と子供の関係は、自分には縁遠いものだと……。 それでも、彼女は幸せだった。 学校の友人達。厳しくもやさしい母。 家庭に父の存在が無くても、幸せだと感じていた。 母がこの世を去ってから、まだ一週間にもならない。 そして、母の葬儀で父の存在を知ったのだ。 父は大手の貿易会社の社長だと言った。 自然と亜希は、父のもとに引き取られる事になった。亜希に親戚はいない。 反対する人も、理由も無かった。 でも……。 立派な洋館。そこに住む美しい少女と青年達。 全てに違和感を覚える。 しかし、人間は環境に慣れるものだ。 二年後、亜希はしっかりとその屋敷に慣れ親しんでいた。 館から出る事のない、葵に、外の世界の話をし、裕也や洋に勉強を教わる。 淡々とした、退屈な毎日。 それでも、亜希は着実に屋敷に馴染んでいった。 「亜希、裕也さんが好きなんでしょう?」 いつものように微熱を出して、ベットにいた葵が、突然亜希に言う。 困惑し、戸惑う亜希に優しく微笑みかけて。 「いいのよ。私の大切な妹と、一番の理解者が仲良くしてくれるのは、嬉しいわ」 確かに、亜希は裕也が好きだった。 兄がいたら、こうだろうか? とも思った。 その「好き」がどういう「好き」なのかはわからない。 情愛。家族愛。恋愛。友愛。 どれも当てはまるような、違うような気がする。 でも、何故葵は突然そんな事を言い出したのだろう? 「亜希には、いつでも自由でいて欲しいの」 視線を窓の外に向けて、葵が呟く。 「葵さんは…葵さんこそ、裕也さんが好きなんじゃないの?」 寂しげな笑顔。 「私は洋さんの婚約者よ」 「でも……!」 「私は屋敷の娘。でも、亜希には、家に囚われず、自由でいて欲しいのよ」 「葵さんは、洋さんを愛してないじゃない!」 葵の表情が変わった。どこが変わったわけではないのに、確かに何かが変化した。 「彼も私を愛してはいないわ。彼が望むのはこの屋敷と、そこにいる私だけよ。私自身ではないわ」 痛いような思いがその言葉にはあった。 葵も何かと葛藤しているのだろうか? 彼女も知っている、この婚約が政略によるものなのだと。 けれど、それを受け入れざる得ないものが……何かはわからないが、あるのだ。 納得のいかないまま、亜希は葵の部屋を出た。 視界の隅に、細い人影が映る。 「洋さん……」 洋はアトリエとしてる自室に入るところだった。 声に振り向いた洋は、どこか捕らえどころのない笑顔で亜希を見る。 「どうかした?」 「あ…絵を、絵を見せてもらおうかと思って……」 ゆっくりと洋のほうへと向かう。 洋は趣味で油絵をやっていた。 その作品のほとんどは、屋敷と葵を描いたものだ。 繊細なタッチは、洋の風貌と重なる。 華奢で、神経質で、そしてどこか冷たい。 裕也とは正反対な印象だ。 「洋さん、葵さんを憎んでるんでしょう?」 不意に亜希の口から言葉が出た。 本人も意識しなかった言葉だった。 「あたし、知ってるのよ。皆が知らないって思ってる事もね」 でも、続いた言葉は、本心だった。 そう、葵が洋を愛して無いこと。それを洋も知っていること。 そして、他にも暗黙の了解で誰も口にしない事も。 「憎む相手と婚約なんてできないよ」 「愛と憎しみは同じものだわ」 洋の目が冷たく輝く。 それは、誰も受け付けない光り。 その目があるかぎり、葵は心から洋を愛することはないだろう。 「人はね、知らないほうが良いことがあるんだよ」 亜希を追い詰めるようにして、洋が言う。 「例え、それが憎しみと同じであれ、僕は葵さんを独占したいんだ。初めてこの屋敷で出会ったときからその思いは変わらないよ」 「間違った愛情だわ……!」 視線を逸らし、床を見つめて亜希は呟いた。 「そうかも知れないね。でも、僕は葵さんを愛している」 心を見透かされたような気がして、亜希は言葉に詰まった。 そう、洋が愛してるのは葵。それは永久に変わらない。 自由を奪われた、籠の鳥の葵。 葵と洋は婚約者なのだ。 これ以上言葉を交わす事の無意味さを感じて、亜希は逃げ出すようにして、自分の部屋に戻った。 知らず、亜希の頬を涙が伝う。 「間違ってる…間違ってる……!」 呪文のように繰り返す。 政略結婚に従う二人が憎いと思う。 葵の心を動かせない洋や、全てを諦めている葵が、哀れだと思う。 この屋敷は狂っている。 |
3章 夢の終焉 §1 夢の館 初めて葵が洋とで出会ったのは、12歳の時、屋敷でだった。 そこで初めて「おまえの婚約者だ」といわれたのだ。 それまで、葵は将来を共にするのは裕也だと信じていた。そんな葵には衝撃的な言葉だった。 不安そうに裕也を見上げると、裕也もまた困惑を隠しきれずにいるようだ。 線の細い、どこか神経質そうな洋は、細身ながらも筋肉質な裕也とは正反対の印象を受ける。 あまりいい印象ではない。 だが、拒否する権利は葵にはなかった。 父こそが絶対の権力者だったのだから。 洋が微かに微笑んで「こんなに綺麗なお嬢さんと婚約できるとは幸せだ」と言ったとき、7歳年上の洋が無邪気に見えて、葵は少しだけ安堵した。 洋はとてもこの屋敷が気に入ったようで、絵を描きたいと申し出た。 洋が絵を描く。それは彼の印象にぴったりとしている。 庭で屋敷を描く洋の背後から葵は声をかけた。 「綺麗な絵ね」 洋は笑ったようだった。 「綺麗なのはあなたでしょう」 僅かな沈黙。 葵はその外見に無頓着で、自分が綺麗だなどと考えたことはない。 むしろ病的な白い肌は、葵にとっては恥ずべきものだった。 「この屋敷はすばらしい。そして、葵さん。あなたはここの象徴だ」 疑惑が湧いた。 洋が求めているものは、自分ではなく、屋敷なのだろうか? いつもは冷たいとさえ映るその瞳の熱っぽさが、葵に恐怖を覚えさせた。 この人と共に将来を共に過ごせるだろうか? 私が求めてる人は彼ではない。 しかし、それを言葉にするのは許されない。いや、思うことすらも許されない。永遠に封印しなくてはならない思い。 それ以来、葵は求めるのをやめた。求めても得られないなら、諦めたほうが楽だからだ。 後ろ向きな感情なのは、自分でも承知している。でも…… 葵は幼いながら、諦める事に慣れすぎていた。 歪んだ愛憎の屋敷に、何故葵―志帆―は戻ろうとしているのだろう? 「ここにいちゃ駄目だ!」 優が語尾きつく言う。 「志帆をつれて、すぐに札幌に帰ろう」 涙で目を潤ませたまま、真帆は優を見上げた。 「信じてくれるの?」 「わからない。でも、ここにはいられないっしょ!」 トクン…… 今まで、これほど優を頼もしいと思ったことがあっただろうか? 真帆は、優に強く抱きついた。 「うん。帰ろう…私達の場所へ……!」 真帆は勢いよく、志帆と裕也たちのいる、居間の扉を開いた。 驚いた様子で三人は、真帆とその後ろに立つ優を見つめる。 「どうしたの、一体?」 真帆の切羽詰った表情に、志帆が問い掛ける。 「帰るんだよ!」 「……え?」 真帆は志帆に駆け寄ると、その手を握った。 「私達のいるべき場所に帰るんだよ」 志帆の表情が変わる。それは葵の顔だ。 志帆は手を軽く振り切ると、二歩後ろへと下がった。 「私のいる場所は、向こう側じゃない」 「志帆!」 「私は真帆《あなた》のようになりたかった。でも、私は私でしかいられない。だから……」 「志帆っ!」 悲鳴のように真帆が叫ぶ。 「私にはここしかないの。優のいる真帆とは違うのよ!」 志帆は目を伏せ、ゆっくりと瞼をあけた。 「真帆が向こう側を望むなら、仕方ないわ。でも、私は帰らない」 「どうして? 私達はずっと一緒にいたじゃない!」 「そう、そして同じ人を好きになった」 驚いて真帆が目を見開く。 「知らなかったでしょう? でも、優は真帆が好きだった。だったら、私は身をひくしかないじゃない」 そう、知らなかった。志帆が優を好きだなんて、考えても見なかった。 真帆と優の前で、志帆があまりに自然だったから……。 思えば、真帆の前で志帆が本心をさらした事があっただろうか? いつもの笑顔。それは本物だったのか? 「それに、私は私の最愛の人たちに出会ってしまったのよ。私が求めていたものにね。」 今、目の前にいる志帆は、確かな決意をその表情に浮かべている。 その志帆を連れて帰るのが、良いことなのか、自信がない。 連れて帰っても、置いていっても後悔するのは確かだ。 優に話した夢を思い出して、真帆は問い掛ける。 「洋さんと……結婚するの?」 「いいえ。私たちは囚われた屋敷で、滞った時間の中、永遠の夢を見るのよ。本当に愛してた人を待つの」 鮮やかなまでの笑顔。しかし、本心が見えない。 でも、それが本心ならどうだというのだろう? 「そんなの、変だよ!」 「いいから、帰るべ!」 優が志帆の手を取る。 「…離して……!」 まっすぐな瞳が優を見上げた。 「優、私はあなたが好きだった。でも、真帆も好きなの。だから本心を隠してきた。でも、それももう終わり」 最初で最後の告白。 「私はここに残る。あなた達は向こう側に戻る。それだけの事よ」 揺るぎない志帆の決意。もう、その心を動かせるものなど、どこにもなかった。 志帆は、真帆と優の背中を押して外へと向かわせる。 二人の後ろで扉が閉まった。 「志帆! きっと、きっとまた来るからっ!」 真帆が最後のあがきとばかりに、叫ぶ。 その声を聞きながら、裕也は志帆に囁いた。 「帰っても構わないんですよ?」 志帆はゆっくりと首を振る。その動きに合わせて、涙が散った。 「さようなら…真帆、優」 小さく呟くと、志帆は裕也に抱きついて、声を立てずに泣いた。 細い肩が、小刻みに震えている。 それは、永遠の別れのようであった。 §2 失われる夢 札幌への道を車は走る。 いつのまにか振り出した雨に、優がワイパーを動かす。 互いに追いかけあい、決して一つにならない。 そんなワイパーに、真帆は志帆との関係を思った。 志帆は真帆のようになりたかったと言った。 それは真帆にとっても同じだ。 後ろへと流れていく景色を眺めながら、真帆はぼそりと呟いた。 「意地でも志帆を連れてくればよかったのかな?」 おや? という表情で優が真帆の方を、ちらりと見た。 「志帆?だれよ、それ」 優の言葉に真帆は愕然とする。 「だれって、私の双子の姉さんじゃない」 優が呆れたように口を開く。 「お姉さんって…… おまえ一人っ子だべや」 「えっ?」 「夢でもみたんじゃないか?」 からかうように優が言う。 真帆は震える手でデジタルカメラの映像を覗いた。 しかし…… そこには、優と真帆しか映っていない。 志帆と一緒に撮ったはずの場所には、真帆だけがいた。 パニック状態になって、真帆が叫ぶ。 「だって、襟裳だって、志帆と一緒に来たじゃない!」 「最初から俺らだけだぞ」 「そんな……」 真帆は車の後ろを振り向いた。襟裳はとうにすぎている。 どういう事なの? 志帆、あなたは……だれ? エピローグ 襟裳に行ってから、約二年が過ぎた、十一月。 親も友人も、戸籍上までも、志帆の存在を示すものは無かった。 そう、写真すら…… 始めから存在していなかったように。 真帆自身、彼女が存在していたのか、自信がない。 志帆の存在が残ってるのは、真帆の記憶の中だけだ。 今、真帆の中には一つの生命が宿っている。 優との絆。 今日、二人は戸籍上の夫婦となる。 新しい生活をはじめるための、小さなアパート。 部屋を片していた真帆は、玄関の小さな音に、その手を休めた。 「郵便?」 小さく呟いて、玄関へと向かう。そして、郵便受けに入っていた絵葉書を取り上げる。 心拍数が一気に上昇した。 それは絵葉書ではなく、写真だった。 そこに写る、二人の顔…… ぎこちなく微笑む真帆の横で、志帆が笑っている。 ああ、志帆。あなたは、確かに存在していた。 真帆はその写真を胸に深く抱きしめる。 例え、世界中の人が、志帆を忘れても、私は忘れない。 一緒に育った記憶。二人で作った思い出。 決して忘れたりなんてしない。 窓の外では、晴れているにもかかわらず、白い物が舞っていた。 「あ…風花……」 桜の花びらを思わせる、白い妖精を見つめながら、真帆は誓った。 思い出の百人浜にかけて、忘れない。 おわり |