愛しい   作 奥原水穂

 美奈子の住む、マンションへと向かう車の中で、綾香はかかってきた電話の内容を思い出していた。
 『子供に会いに来て』
 確かに美奈子はそう言っていた。
 しかし、彼女には子供はいないし、妊娠の噂もきいてない。
 第一に妊娠したのなら、一番の親友である綾香に連絡をくれるはずだ。
 連絡は無かった。
 どういう事だろう?
 異常に明るかった声の調子も薄気味悪い。
 美奈子の夫であった統が、遺体で発見されて、まだ2週間しかたっていないのだ。
 それに……
 新聞やテレビ、雑誌で報道されていた内容を思い出し、綾香は体を震わせた。
 遺体の一部はいまだに発見されていない。
 遺体は手足、胴体が分断されていた。
 長年の付き合いである自分に出来る事は何だろうか。
 取り敢えずは、様子をみるしかできないだろう。自分を納得させる。
 それにしても、子供とは……
 『誘拐』という文字が浮かんだ。
 まさか。苦笑で打ち消す。
 ともかく、美奈子のマンションに行ってからだ。

 マンションの扉を開けると、美奈子の輝くばかりの笑顔が出迎えた。
 その姿に胸を衝かれる。
 なんてやつれてしまったのだろう。頬の肉はすっかり落ち、目も窪んでしまっている。
 「痩せたね……」
 呟くように口にした。
 「そんな事ないよ」
 応える笑顔はぎこちなく、心労を察するに余る。
 ふと落とした視線の先に、左の袖口から覗く、真白い包帯が映った。
 綾香は美奈子に対して考えていた、様々な無責任な空想を後悔した。
 傷ついてない訳がなかった。
 愛する夫の突然の、そして無残な死は、どれほど彼女を追い詰めただろう。
「ねぇ、私に出来る事、何かない?」
 勝手の知った居間へ行くと、ソファーに腰掛けるなり、綾香は言った。
 レースのカーテンが引かれた窓際にある、ベビーベットから意識的に視線を逸らして。
 綾香は「子供」は、美奈子の妄想ではないかと思い始めていた。
 でも、ベットを見ると、何故か落ち着かない気がするのだ。
 きっと、中はお人形よ。
 心の中で言い聞かせる。
 「え?」
 美奈子は目を丸くする。
 「何の事よ?」
 笑う彼女の笑顔が、あまりに痛々しくて、綾香は涙が零れそうになった。
「それよりね。折角来てくれたんだから、子供見てよ。統にそっくりなんだから」
その言葉に綾香の心は沈んだ。
亡くなった夫。いるはずのない子供。
それを前にして、自分はどう反応すれば良いのか……
促されるまま、ベビーベットに目をやった。
そして、綾香はそのまま息を呑んで硬直した。
人形の寝かされたベビーベット。彼女はそう信じていた。
少なくともこの部屋に入ってからは、そう確信していた。
なのに……
何故動いているの……?

そこにいるのは、本当に子供だったのだ。
誘拐だったのか?
美奈子を説得して警察に届けるべきか。
美奈子は綾香の様子に気付きもせず、ベットから子供を愛しそうに抱き上げている。
その表情は母親そのものだ。
その子供はあなたの子供ではないのよ!
叫びたかったが、声が出ない。
子供を腕に渡されても、その顔を見る事が出来なかった。
「可愛いでしょう?」
そう言われて、反射的に腕のなかに目を落とした。
 鋭い悲鳴が綾香の口から零れ、彼女は腕に抱いていたモノを投げ捨てた。
子供ですって?
誘拐ならどんなに良かっただろう。
でも予想はしてたような気がする。
美奈子が彼女に渡したのは、統のまだ発見されてなかった部分。
……頭部だったのだ!
子供というのは、統の頭だった。
何故こんな場所に、そんなものがあるのか。どうしてそれを美奈子が持ってるのか。
そして、死体である頭が動いていたのは何故か。
頭の中にはたくさんの言葉が浮かんだが、何一つとして、口をつく言葉はない。
意識が混乱した状態にありながら、綾香は目の前にいる美奈子の様子を冷静に観察できた。
美奈子は子供の悪戯に苦笑する母親よろしく、投げ出された我が子を抱き上げる。
「綾お姉ちゃん、あなたがパパそっくりだから、びっくりしちゃったみたいだよ」
そして綾香に微笑みかけた。しかし、その笑顔はどこか残忍に映る。
「大丈夫よ。綾お姉ちゃんは、パパの事大好きだったんだから、あなたのお願いだってちゃんときいてくれるわよ」
綾香の目が恐ろしいものを見つめるように見開かれた。
美奈子は統と綾香の関係に気付いていたのだ。
二人はいわゆる、不倫関係だった。
本気だったかどうかは、自信が無い。友人の夫という立場に入れ込んだとも言える。
でも、美奈子が気付いたなんて、想像もしていなかった。
そこで、美奈子の言葉がやっと耳に届いた。
「お願い……ですって?」
驚きを抑えて、綾香はやっとの思いで口を開いた。
「…そのために、あなたを呼んだのよ。綾香」
まるで呪いのように、美奈子が告げる。
「この子、あなたが欲しいって言うんだもの、仕方ないわよね」
美奈子はゆっくりと、かつて統のものであった、頭部を包んでいた産着を脱がせた。
手首の包帯の白さが眩しい。
ついて出るはずの叫びは声にならなかった。
生首の閉じられていた目が、見開かれる。
首の下からは、触手のようなものが、何本も垂れ下がり、意思を持ってうごめいているではないか。
両の耳の位置からは、ふわりと浮かぶように翼が羽を広げ、綾香へとむかって舞った。
「アイタカッタヨ、アヤカ……」
どこか金属を思わせる、耳障りな声で生首が声を放つ。
そしてそれは、綾香の首筋にへばりつくと、その白い首筋に牙を立てた。
綾香の口からは、苦悶のうめき声しか出ない。
「統さん、あなたは、綾香じゃなきゃ駄目だったの?」
血肉を啜る浅ましい音の中で、美奈子の寂しげな呟きを聞くものは、もうだれもいない。

             終わり