星月夜     作 奥原水穂


   序章 

 夕立に煙《けむ》る中、その屋敷はあった。
 断崖絶壁に建つ、西洋風の建物は、ここが異国のような感じを受ける。
 白樺の樹々が激しい雨に霞む。
 (雨は嫌い。雷はもっと嫌い)
 少女はベッドの柔らかい腕《かいな》に抱《いだ》かれる。
 木目のベッドは四角い子宮。布団は暖かな羊水《ようすい》のように、少女を包む。
 階下からはお手伝いの女性達の、甲高い笑い声が聞こえるが、それも外の雷鳴にかき消される。
 少女の声を聞き、それに応えるものはない。
 頼るべきものも、人もいない。
 少女は限りなく孤独だった。
 いつの間に眠ったのだろう?
 狂ったような蝉《せみ》の鳴き声が、うたた寝から少女を目覚めさせる。
 葵、7歳の夏。
 体をベッドから引き離した葵は、自分ほどの大きさもある椅子を窓辺へと引きずって行き、思い切ったように窓を開け放した。
 白いレースのカーテンが揺れ、夕立ちのおかげで少し涼しくなった夏風が舞い込む。
 (…あ……虹……)
 外の世界へと通じる架け橋。そこは葵のまだ見ぬ遠い世界。
 いつか……いつの日にか、外に……あの虹の果てに旅立てるだろうか?
 外の世界から祝福をうけられるだろうか?
 葵は幼い姿に似合わないため息をついた。
 遠い。あまりにも遠すぎる世界。
 屋敷の娘として生まれてきた宿命は変えられるのだろうか?
 自分の思いにとらわれていた葵は、何気なく視線を漂わせ、凍りついた。
 私有地であるこの土地に、見知らぬ人影を見つけたのだ。
 遠めでも少年とわかる小さな体、日に焼けた健康そうな姿。
 (外の人だ!)
 葵の知らぬ世界を知る人。
 鼓動《こどう》が激しくなり、小さな心臓が早鐘《はやがね》を打った。
 思わず身を隠し、静まるのを待つ。
 葵は再びその姿を外に探したが、すでにその場所に少年はいなかった。
 軽い失望感。
 けれど、いつかの日にか、必ずその人が屋敷の外へと連れ出してくれる。
 そんな確信があった。
 その日を待ち続けようと。


   一章 岬の洋館

   §1

 駅についた真帆は、岬行きのバスを待っていた。
 胸には幼い我が子を抱いて。
 「海人《かいと》、もうすぐだからね」
 双子として育った志帆。彼女が消えて3年。
 あの屋敷は時間が滞っていた。
 手元には、志帆と真帆とが映っている一枚の写真。
 そして一歳と半年になる息子。
 これだけで、岬に向かうのは無謀だろうか?
 志帆と離れた3年間。ずっと悩み続けてきた。
 真帆の恋人だった、現在の夫、優。
 志帆も彼が好きだったから。
 どうあっても、出会えば傷つけてしまうかもしれない。
 それでも、かつての思い出を持ち続けている、真帆としては、どうしても会いたかったのだ。 
 それにしても、岬についてから、どうやって屋敷に向かえばいいのだろう?
 バスが来て、真帆は子供と共に乗り込む。
 幼いながらも、何かを感じているのか、海人がむずがっている。
 それをあやしながら、真帆はかつての日々に思いをはせる。
 二人は優に連れられてこの北の地に来た。運命に導かれるように。
 そこには夢の中で見た屋敷や人々がいた。
 志帆はそこで、葵として留まる決意をしたのだ。
 真帆に恋する優を捨てるため。
 いやもっと深い感情があったかもしれない。
 バスが到着して、真帆は思案にくれた。タクシーでも拾おうか?
 そのときだった。
 「何処《どこ》行くの?」
 声をかけられて、ビクリとして振り返ると、道路に一台の白い車が止まっていた。
 浅黒い顔、半そでのTシャツから伸びる腕も黒く筋肉質だ。
 「子供、寝てるみたいだから大変そうだと思って」
 笑った時に出る、目元の皺が人懐こい。
 でも、驚いたのはそれではなかった。
 (龍ちゃん?!)
 「浜に行きたいの」
 「浜? 何もないっしょ、そこ」
 不思議そうな彼に「思い出の土地なの」と言うと、何か考える風をして、彼は了解する。
 新井誠《あらいまこと》。彼はそう名乗った。
 助手席に乗った真帆は、子供を抱きしめながら、誠の横顔を見つめていた。
 彼は志帆…いや、葵の待っている人。
 でも、彼は真帆が誰であったのか、気付いていないようだ。


     §2

 全ては夢の世界。
 否、現実にあった過去の物語。
 現在と過去の交差する屋敷。
 そこへ真帆は向かおうとしている。
 葵の愛した男性と共に……。
 その先にあるのは、何なのだろう?
 「あ、待って!」
 真帆が突然車を止めさせる。
 「何?」
 「今の道を山側に入ってくれる?」
 「そっちは浜じゃないよ?」
 「お願い」
 不審そうな誠に、真帆は満面の笑みで、甘えるように言った。
 「まぁ、急ぐわけじゃないからいいけどね」
 真帆の笑顔に小さくため息をつきながらも、言う通りに山へと車を走らせる。
 (へぇ……こういうところ変わってないなぁ)
 真帆は思った。本人は忘れてるんだろうけれど。
 森が突然開け、そこには蔦《つた》の絡まる白い洋館が姿を現した。
 「こんな所に家があるんだ」
 驚いた誠の様子が、妙に面白い。
 真帆は、海人を抱いて洋館の大きな扉の前に立った。
 あれから三年か……。
 志帆は? 裕也さんは? 洋さんは変わってないのだろうか?
 子供を抱いた真帆に代わって、誠が扉を叩く。
 今、滞《とどこお》った時間は動き始めようとしている。

 「真帆!会いたかった!」
 栗色の長い髪を纏《まとめ》め上げて、黒のワンピースを着た志帆が真帆に向かって走っていく。
 「その子が、海人なのね」
 何処で知ったのか、志帆は真帆の到着を待っていたようだった。
 志保……館では葵と呼ばれている、双子の姉だった人。
 3年前に館に留まるのを決意し、それ以来久し振りの再会だ。
 志帆は真帆の後ろに立つ男性を見上げて、目を大きく見開く。
 「…龍一さん……?」
 「はじめまして、新井誠です」
 その言葉に、志帆の顔に失望が浮かぶ。
 彼は思い出しているわけではないのだ。
 偶然か必然か。
 真帆に連れられてきた男性。
 はるかな過去に運命を共にしようとした人は、その記憶を失っている。
 「裕也さん、皆さんに冷たいものを」
 「いや、俺は結構です」
 顔の前で手を振って誠が辞退する。
 「急ぐんですか?」
 寂しそうに見上げる志帆の視線に、誠は何故か初めて会った人ではないような、そんな印象が生まれた。
 「別に急ぎってわけじゃないけど…」
 「だったら、少し滞在してみませんか?」
 そう話し出したのは裕也だ。
 「このあたりは観光地から少し離れているので、それなりの穴場があるんですよ」
 「穴場?」
 「そう、湖とか、川とか……綺麗ですよ」
 久し振りの休日。自然と戯《たわむ》れるのも悪くはないかもしれない。
 「後で私が案内します。ですから、一休みなさってください」
 初めて会う。しかし、どこか記憶の中にあるような穏やかな瞳で志帆が付加える。
 ふと暖かいものが手に触れた。
 まだおぼつかないものの、歩き出した海人が誠の手を握っていた。
 「海人もなついてるみたいだしね」
 面白そうに真帆が言う。
 「でも…邪魔じゃないですか?」
 「いいえ、滞在していただけるほうが嬉しいんです」
 何故だろう、この志帆という女性を見ると、妙に落ち着かない気分になる。
 それでも、海人の手を払ってまで屋敷を出ることも出来ず、結局しばらく滞在することになった。
 

   §3

 冷房の効いた部屋で、アイス珈琲を志帆はアイスティを飲みながら、4人は雑談に興じていた。
 いや、正確には誠の話を志帆が聞きたがったのだが。
 煙草を加えた志帆に、誠は少し驚いた。
 「煙草吸うの?」
 くすりと志帆は笑った。
 「昔は吸わなかったんですけどね」
 「昔」という部分にアクセントを置いて志帆が答える。
 何だろう、この違和感は。
 彼女はもっと違っていたはずだ。初対面のはずなのに、何故か誠は思った。
 そのとき玄関の扉が開いて、洋が入ってきた。
 「ったく、一体何処へやったんだ?」
 独り言を呟き、来客に気付いて、言葉を切った。
 挨拶をしながら、洋は誠を見つめた。その鋭い眼差し。
 明らかな敵意を示されて、誠は困惑する。
 何故敵意を示されるのかがわからない。いや、わかるような気もする。
 ぬれた洋の髪に気付いて、志帆が窓を見つめた。
 「雨が降ってきたのね…… あのころは雷が嫌いだったわ」
 柔らかく微笑みながら、呟く。
 あの頃とはいつの事だろう?
 「誠さんは、一目惚れを信じます?」
 「え?」
 突然話題を振られて、誠は意味がわからなかった。 
 「人となりを知らない人に恋愛感情はもてないな」
 「そうね……」 
 どこか悲しそうに、志帆はうつむく。
 その様子に、誠の胸が少しだけ痛んだ。

 引き止められるままに、誠は屋敷にとどまった。
 広い客室は洋間で、来客用の少し大きめなベッドが置かれていた。
 サイドテーブルもあって、ちょっとしたビジネスホテルのようだ。
 岬で真帆を見たとき、声をかけたのは、勿論子連れが大変そうだったからだが、それだけではない、懐かしさを感じたからだ。
 そして、そのとき以上の懐かしさを志帆から感じる。
 でも、初対面であるのは、断言できるから、不思議なものだ。
 「縁ってやつかね…」
 ぼそりと呟いてベッドに寝転がる。
 しばらく転寝《うたたね》をしていると、部屋の扉がノックされた。
 返事をしながら開けると、そこには志帆がいた。
 「あら? もしかして寝てました?」
 寝癖のついた髪を、手櫛《てぐし》ですいて、誠は苦笑する
 「雨の日って眠いですよね」
 くすくすと志帆が笑う。
 確かに初対面だ。でも妙になつかしい。
 「雨上がったんですよ。約束忘れてません?」
 「え? 約束?」
 まだ寝ボケ眼の誠の様子に、志帆は耐え切れないというように、爆笑した。
 「穴場を案内するって言ったでしょう?」
 「ああ……」
 すっかり忘れていた。ばつが悪そうに、鼻の頭を掻く。
 「ねぇ、行きましょう!」
 返事も待たずに志帆は誠を連れ出した。
 強引な様子に誠も逆らえない。いや、逆らう気なんてまったくない。

 最初に連れてこられたのは、館の見える白樺の林。
 「屋敷から、ここを見るのが好きだったのよ」
 遠い目をして志帆が言う。
 「昔は体が弱くて……」
 次に行ったのは小さな滝のある小川だ。
 川岸は少し広くなっていて、ここでバーベキューでもしたら楽しそうだ。
 「逢引《あいびき》にうってつけだと思いません?」
 逢引……
 随分と古風な物言いに、誠は微笑する。
 不思議な、面白い女性だなと感じた。
 不意に、眩暈《めまい》のような感覚が襲った。
 ランダムに浮かぶ映像。
 これは現実なのか……? 


   2章 出会い 

     §1

 龍一《りゅういち》はずっと海に憧れていた。仕事をするなら、海に関するものをしようと、幼い頃から決めているほどに。
 北の冷たい海は、父の仕事場。
 父は漁師だった。
 北の岬には洋館が建っている。
 田舎町には相応しくない、その建物にはきっとお姫様がいるのだろう。
 そんな幻想を抱きつつも、龍一は未来を見つめていた。
 学校を卒業すると同時に、海軍に入隊し、決して楽ではない日々を送っていた。
 久々の休暇に、龍一は実家のある北の町へと戻る。
 最初はぎこちなかった制服も、今ではしっくりと自分に合ってると思う。
 その姿を両親に見せたかった。
 漁師の後をついで欲しいと願っていた父も、軍に入るのを反対していた母も、立派に成長した息子の姿に目を細める。
 「龍一、岬のお館さまに挨拶しといで」
 言ったのは母だ。
 「お館さまは、お前が入隊するのに、力を貸してくださったんだよ」
 初めて知った事実に、龍一は驚愕する。
 自分の力だけではなかったのか。
 同時にお館さまと呼ばれる男性に興味を抱いた。
 噂では、混血の妻を持ったものの、妻は病死して、今はほとんど屋敷にいないという。
 その妻のために建てたのが、あの館だとか。
 あるいは、こっそりと愛人のために建てたとか。

 昔から興味を抱いてた屋敷に、龍一は馬で向かった。
 近くから見ると屋敷はかなり大きく、不思議な感じがする。
 まるで、異国にいるかのような……
 玄関に現れたのは、年のころ二〇代の男性だった。
 丁寧な言葉と、洗練された動作が屋敷に似合っている。
 裕也と名乗った男性の後ろから女性の声がした。
 「裕也さん、お客様なの?」
 現れたのは、幼い頃想像していたお姫様のような女性だった。
 色素の薄い髪と瞳。白い肌に薄い色のドレスがとても似合っている。
 「ああ、父に会いに来たのね。ごめんなさい、父はしばらく留守をしてますの」
 女性は艶《つや》やかに微笑んだ。
 「わたくしでよろしかったら、お話しを伺いますわ」
 「いや…… 話というより、挨拶に来ただけなので……」
 女性は残念そうに見上げる。
 「ここには決まった人しか訪れません。わたくしも外へは行きませんし…… お相手していただけます?」 
 どことなく、影の薄い女性の言葉に、龍一は断れなかった。


     §2

 その後も屋敷を訪れる事を葵は望んだ。
 龍一は、屋敷の微妙な不協和音を、肌でかんじている。
 それでも、葵の笑顔がみたくて、それだけで屋敷を何度も訪れた。
 しかし、それは葵以外の人にとっては望ましいことではなかった。

 「まぁ、溺《おぼ》れたことがありますの!?」
 ころころと葵は笑った。
 現役海軍で、漁師町に住んでいる人間が、溺れたことがあるというのが、意外だったようだ。
 葵にとって龍一はかなり異質な人物だった。
 物静かでありながら、頑固な父。
 穏やかな兄のような裕也。
 いつも元気で外を走り回る亜希。
 そして繊細でありながら情熱を秘めた婚約者。
 しかし、葵の心は微妙に揺れている。
 婚約したのは洋。でも、心は裕也にある…… そう思っていた。
 しかし、葵は龍一に惹かれるものがあった。
 婚約者のいる身で、他の人に心を奪われるのは、いけないことと知りながら、それでも、葵は礼儀正しい軍人に心惹かれていく。
 裕也は常に自分と共にあった。だから、愛しているのだと、そう思っていた。
 けれど、それが間違いだったと気付く。
 愛してはいる。でもそれは、家族愛だ。
 そして、婚約者である洋。
 彼は彼女自身ではなく、館を愛しているのだと思った日から、葵は距離を保ち始めた。
 親の決めた婚約。それに従う自分が惨めだった。
 そんなときに出会った青年。
 異性として、葵は龍一に少しずつ惹かれていくのを止められなかった。
 浅黒い肌、黒い髪と意思の強そうな瞳。一見冷たそうにも見えるが、微笑んだときに浮き上がる目じりの皺に愛嬌がある。

 当然のことながら、龍一の訪問は洋にとって喜ばしいものではなかった。
 しかし、葵の自然な弾けるような笑顔は、洋画を描く洋にとって、創作意欲を沸き立たせるものであった。
 何度も繰り返しデッサンをとり、それを絵にしていく。
 けれど、その絵には何かが足りなかった。
 それは、自分の為の笑顔でなかったからかもしれない。
 けれど何度も葵を描くうちに、洋は葵と屋敷に対して、異常なほどの執着を持つようになっていった。
 貪欲なほどに、洋は屋敷と葵の本当の姿を手にいれたくなったのだ。
 それがどんなものかは、彼にもわからずにいたのだが。
 洋は龍一と葵に嫉妬しながら、彼を前にした葵の美しいまでの姿をとどめておきたかった。
 彼は自分の壊れていく音を、心の中で聞いた。
 もう、後戻りはできない。
 葵を……
 屋敷を……
 すべて手に入れるのだ。


     §3

 龍一が屋敷を毎日のように訪れているのは、田舎町ゆえにすぐに広まった。
 婚約者のいる女性の家に毎日行っているのだ。
 心無い人の噂は、葵達の父にも伝わっていた。
 珍しく屋敷を訪れた父は、葵を書斎に呼び出す。
 「婚約中の女が別の男にうつつをぬかすとはな」
 どこか軽蔑《けいべつ》するように、父は言う。
 もう二度と会ってはならないと。
 「お父様!私は洋さんを愛してはいないのよ!」
 「……決まった事だ」
 葵の目にはうっすらと涙が浮かんだ。
 「それはお父様の決められたこと、わたくしは…… 龍一さんを愛しています」
 バン!
 と、父は机をたたいて立ち上がった。
 「お前は兵藤の名前に泥をぬるつもりなのか!? 恥知らずに育てた覚えはないぞ」
 「わたくしも恥知らずではありません!」
 父と娘。向き合って心を伝え合ったのは初めてだったが、それがこういう内容なのは不幸といえよう。
 「ともかく、今後黄金崎《こがねざき》くんに会ってはならない。分かったな」
 それだけを言うと、無言で葵の退室を促《うなが》す。

 部屋に戻ると葵は声を殺して泣いた。
 一目惚れというものが分かった気がした。
 けれど、それは許されない恋。
 泣き続けてどれくらいが過ぎただろう。
 ノックの音に葵は涙を拭いてドアへと向かう。
 そこには亜希がいた。
 「葵さん、散歩に行こう!」
 「え?」
 「家の中にばかりいるから、気が塞《ふさ》ぐのよ」
 半ば強引に外に連れ出された葵は、小さな川のそばの広場に、愛しい姿を見つけた。
 「お父さんには秘密よ」
 いたずらっぽく笑って、亜希は葵の背を押した。
 「ここは、私の秘密の場所。誰も来ないよ」
 「亜希…… ありがとう」
 亜希は恥ずかしそうに笑ながら、葵を残して屋敷に戻った。

 「龍一さん……」
 「亜希さんに言われてここに来たんです」
 「もう、逢えないと思っていたわ」
 さっきとは違った涙が頬を伝った。
 二人は長い抱擁の後に、ゆっくりと唇を重ねる。
 短いが、想いのこもったくちづけだ。
 「どうして初めて合った人に、こんなに心を惹《ひ》かれるのかしら?」
 葵は独り言のように呟いた。
 「初めてじゃないですよ」
 「え?」
 龍一を葵は振り仰ぐ。
 大好きな微笑み。
 「もう10年くらい前だったかな? 屋敷の庭に忍び込んだことがあるんですよ。そこで、一瞬ですがお嬢さんを見かけました」
 あの日の少年。それは、葵の古い、でも大切な思い出の一つだった。
 あの時の少年が今、大人になってここにいる。

 
     §4

 何度となく逢瀬を重ねる毎に、葵と龍一の心は固く結び合った。
 しかし、それも許されぬこと。
 このままで行けば、龍一は内地の軍へと戻り、葵は洋と結婚するしかない。
 それでも、離れるなどとは出来ない。そこまで二人は追い詰められていた。
 「貴女は、家を捨てられますか?」
 不意に出た龍一の言葉の意味に気付かず、葵は龍一を見上げる。
 「自分と一緒に内地に行きませんか?」
 それは駆け落ちの誘いだった。
 何度その言葉を待っていただろう。
 でも、葵の心は揺れた。
 屋敷を離れ、親を裏切り、誰にも許されぬ恋を貫く。
 その重圧に、葵の瞳が戸惑いを浮かべる。
 「少し…時間をください……」

 屋敷に戻った葵は、塞ぎこむように、部屋にこもった。
 親や婚約者を裏切ることが、自分にできるのだろうか?
 そんな葵の不安に気付いたのか、亜希は葵を庭に誘った。
 「龍ちゃんのこと好きなんでしょう?」
 ずばりと核心をつかれて、葵は動揺する。
 「屋敷に自ら囚われる必要ないと思うな」
 小首をかしげて、葵の目を覗く。
 「屋敷の娘は葵さんだけじゃないんだよ? 自由になっていいと思う。後はあたしに任せて!」 
 それからの亜希の行動は素早かった。
 駆け落ちの当日、亜希は葵にモンペとかくまきを用意していた。
 葵の普段着では、高価すぎて目立つから、かくまきは色素の薄い髪を隠すために。
 夜中二人はこっそりと玄関から外へと出た。
 「亜希……ありがとう」
 言うなり葵は走る。愛しい人の下へと。
 照れくさそうに亜希は笑い、葵を見送った。それを見つめる瞳の存在には二人とも気付かない。
 「亜希さん?」
 ドキリとして振り返ると裕也がそこにいた。
 「どうしたんです、こんな夜更けに外に出て」
 「あ……星が綺麗だと思って…」
 裕也が空を見上げる。
 夜空には満天の星と半分かけた月が輝いていた。
 「本当に綺麗ですね。でも、寒いから戻りましょう」
 「うん……」
 裕也は亜希の言葉を信じたのだろうか?
 それでも、葵の無事を祈りながら、亜希は玄関へと向かった。

 「龍一さん!」
 葵は秘密の場所にいる龍一めがけて飛び込んだ。
 勢いよく胸元に飛び込む愛しい姿を、龍一は優しくだきとめる。
 「時間がない、行きましょう!」
 龍一は葵を馬に乗せると、自分もまたがり駆けた。
 明るくなれば、二人の不在に周囲は気付くだろう。そうなる前に二人は逃げなくてはならなかった。
 龍一にしがみつくようにしていた葵は、この瞬間が永遠に続くのを夢見ながら、屋敷から開放された自分を自覚する。
 自由とはこういうものなのか。
 不安と期待の中で、葵は龍一の体温を感じていた。
 亜希には悪いが、この想いはとても大切で、失いたくはないものだったから。  


   3章 別離
 
     §1

 庭から屋敷に戻った、裕也と亜希。
 それを目ざとく見つけたのは父だ。
 隣には洋がいる。
 「葵が逃げたな」
 底冷えのするような声で父は言った。
 「洋くん、君は町へ行って町民に山狩りを依頼してください」
 そして、今まで見たことの無い冷たい視線で亜希をみつめる。
 「亜希、お前は私が良いと言うまで、部屋から出るな」
 「裕也は馬車で二人を追いたまえ。私も手を打つ」
 愕然と亜希は父と洋を見つめた。
 明らかに、葵と亜希の動向に気付いた洋が父に告げ口をしたのだ。
 怒りが頭を真っ白に燃やす。
 気付いたとき、亜希は洋の頬を打っていた。
 「卑怯者!」
 打たれた洋は、頬を押さえる事無く、ぞっとするほど、残忍な笑顔を浮かべている。
 「本当に欲しいものを手に入れるためになら、卑怯も何もないよ」
 それまで、亜希には優しかった洋の新たな一面を見て、亜希は震撼した。
 そして同時に、葵が逃げて正解だと思った。
 逃げ切れればいいのだが…

 満天の星空と、神秘的な月の光を浴びて馬は駆ける。
 若き男女の想いを乗せて。
 龍一の焦りとは反対に葵は幸せを感じていた。
 愛しい人との未来を夢見る。
 港には愛を運ぶ船が待っているだろう。
 葵の想いとは反対に、空は白みはじめていた。
 龍一の焦りは強くなる。
 何とか、船に乗れれば逃げ切れるだろう。
 港が見えたとき、二人は安堵の溜息をついた。
 これで、共に逃げられる……。
 しかし、現実は決して甘くはなかった。
 馬を下りて、船へと向かう時、二人は船員たちに囲まれたのだ。
 「葵お嬢様、お父様から連絡を受けています」
 「!?」
 「お嬢様を唆《たぶらか》しやがって!」
 一人の船員が龍一の頬を殴りつける。
 驚いて駆け寄ろうとする葵を、別の船員が羽交い絞めにしてとめた。
 数人の船員がよってたかって、龍一を殴り、蹴り上げる。
 龍一の口から、鮮血がこぼれた。
 「やめて!」
 葵は叫ぶ。
 「屋敷に戻ります、だから止めて!」
 葵を抑えてた手が緩んだ隙に、葵は龍一に駆け寄った。
 かばうように、龍一に抱きつく。
 「ごめんなさい……」
 涙が頬を伝った。
 懐からハンカチを取り出し、血に濡れた唇にそっとあてがう。
 「わたくし達の想いは許されないものだったのだわ……」
 絶望に打ちひしがれる葵を見つめ、龍一は半身を起して、葵の手ごとハンカチを握り締めた。
 「自分は諦めてはいません」
 はっと、二人の視線が絡み合う。
 「必ず…… 必ず迎えに来ます。待っていてくれますか?」
 その時だった。
 馬の鳴き声に二人はその方向をみた。
 馬車がそこにはあった。
 そこから降りてきたのは裕也だ。
 いつも温和だった裕也。しかし、葵が初めてみる険しい表情で、裕也は二人に近づいた。
 葵を押しのけ、龍一の胸倉を掴《つか》みあげる。
 「何故だ……!」
 搾《しぼ》り出すように口にする。
 「何故もっと早く、遠くに逃げなかったっ!」
 葵と龍一は驚いたように、裕也を見つめる。
 二人の想いを、許していたのは亜希だけではなかったのか。


     §2

 二人が別れ、葵が屋敷に戻ってから、彼女は月に一度の、ただ一人からの手紙を待ち続けた。
 手紙は亜希や裕也が渡してくれる。
 それには働く龍一の生き生きとした姿。葵への変わらぬ想いがつづられていた。
 葵はそれを宝物のように大切にしまい、時折《ときおり》眺《なが》めては胸元で抱きしめる。
 一見安定したかに思える葵の様子に、安心した父は裕也に後を頼み、長崎へと戻って行った。
 屋敷には葵と亜希、裕也と洋、そして数人のお手伝いのみが残っている。
 手紙が届くと、葵は亜希を呼び、嬉しそうに龍一のことを語った。
 幸せそうな葵に亜希は喜び、裕也も心の中で安堵している。
 ただ一人を除いて。
 龍一は去った。なのに、葵の輝くばかりの姿は龍一のため。
 一件の後、婚約を延期された洋は、イライラと、親指の爪を齧る。
 葵も屋敷もこのままでは手に入らない。
 しかし、洋の呪いは彼に味方をした。
 いつものように手紙を受け取った葵の様子がおかしい。
 心配そうにする亜希に、葵は遠くを見るように語った。
 遠くで起きている戦火はいよいよ日本に影響し、龍一は戦地へと赴くことになったのだ。
 そして……
 「もう、待たないで欲しい」
 の一言。
 いつか訪れるだろう幸せを夢見ていた葵には、あまりに残酷な言葉。 
 そして全ては転落していった。
 屋敷を訪れた、一人の男性。
 軍服に身を包んだかれは、一つの品を手に葵への面会を求めた。
 尋常ではない状態に、受け取った裕也は途方にくれる。
 これを見た葵が冷静でいられるとは思えなかった。
 かといって、渡さない訳にはいかない。
 思案していると、背後から近づいた洋が、その品を奪い取った。
 「洋くん!」
 「これは僕から、葵さんにわたしてあげるよ」
 洋は踊るようにして、葵の部屋に向かい、軽い音を立ててノックした。
 「葵さん、貴女への最高の贈り物だよ」
 葵に洋は一枚のハンカチを手渡した。血や泥のついたそれは、葵が龍一に渡したもの。
 「彼はもう戻らない」
 残酷に笑いながら洋は現実を突きつける。
 「そんな…」
 戦場に行ったのは知っているが、まさかの戦死。葵は呆然とハンカチを抱きしめた。
 その様子を観察するように見つめる瞳。
 薄情そうな薄い唇が薄く笑いを刻んでいる。
 葵は部屋を飛び出し、居間へと向かった。
 そこには、初めて会う軍服の男性。
 「自分は古賀と申します。黄金崎龍一少尉からお預かりしました。立派な最後でした」
 (立派な最後?)
 そんなものが何の役にたつというのだろう?
 くらりと眩暈を感じる。
 それでも、葵は目を深く閉じて「ありがとうございました」と伝えた。
 それ以外に何が出来るだろう?
 迎えに来ると言った彼。
 また会えると思っていた。いや会えなくても、お互いの心に生き続けるのだと。

 その日から葵の様子が変わった。
 食事もほとんどとらなくなり、部屋からも出なくなった。
 亜希と裕也はその葵に危ういものを感じていた。
 だから、屋敷に働く人に、葵が外に出ないように注意をしていたのだ。
 ライバルの消えた洋は、妙に明るく、葵の心を傷つけている。
 婚約を延期したのは、葵の心が落ち着くのを待つため。しかし葵はもう笑うことはなかった。
 そんなある日、葵が消えた。
 「いったいいつの間に!」
 いらいらと葵を探す亜希と裕也。
 そんなときですら、洋は絵をかき続けていた。
 そして飛び込んできたのは訃報《ふほう》。
 海岸に女性の遺体があがったのだ。着物姿の女性は胸の隠しにに血塗れたハンカチを大切そうに抱きしめていた。
 水死であるにもかかわらず、その死体は生前のままの姿をとどめていた。
 口元はうっすらと微笑を刻んでいる。
 「葵さん! 葵!!!」
 亜希は動揺しながら、死体に抱きつこうとする。それをとめたのは裕也だ。
 「彼女はもう死んでいる」
 わかりきった言葉に、亜希の悲しみは怒りになった。
 「龍ちゃんが死んだから、葵も死んだのよ!」
 「そう、私達が殺したんだ」
 苦しそうに呟く姿に、亜希の目が涙で潤んだ。
 言葉もなく、ポタポタとこぼれる涙。それを拭こうともせずに、亜希は泣き続けた。
 (私が殺した!)
 (龍ちゃんとの駆け落ちをそそのかさなければ!)
 後悔は後から後からやってくる。
 いつも洋装だった葵が和服姿だったのは、決意の現れだったのだろうか?

 遺体は屋敷に運ばれ、棺《ひつぎ》におさまった。
 「さあ…」
 裕也は葵の化粧道具を亜希に差し出した。
 無言でそれを受け取り、葵の顔に死化粧を施す。
 桃色の頬紅、赤い唇。
 その姿は生きていたころよりも元気そうで、亜希の涙は留めなく流れた。
 今にも「何で私、こんなところにいるの?」と言い出しそうだ。
 裕也は亜希をそっと後ろから抱きしめた。
 「葵さんは、綺麗な姿で、龍一くんに会いに行ったんだよ」
 「違う! 私達が葵さんを追い詰めたのよ!」
 泣き叫ぶ亜希をしっかりと抱きとめ、裕也は亡き葵から視線をそらした。
 どんなに綺麗になっても、もう彼女は生き返らない。
 なのに、洋は葵のデッサンをとっていた。
 結婚を約束した相手の死が悲しくないのだろうか?
 亜希は裕也から離れ、洋につかみかかった。
 「わかってるの!? 私達が葵さんを殺したのよ!」
 「違う…」
 「違う?」
 「葵さんは、ここで屋敷の娘として生涯を生き続けるんだ」
 呆然と亜希は洋を見上げた。
 普段より熱っぽい眼差し。
 「狂ってる!」
 亜希はとめるのを聞かず、自分の部屋へと飛び込んだ。
 葵の最後なんて見たくない。
 葵との過ごした数年間は、決していい思い出ばかりではない。それでも…
 亜希にとって葵との年月は忘れられないものだ。
 いつだったか、葵は亜希に問いかけた。
 「裕也さんを好きなのでしょう?」
 と……。
 葵は自分の果たせなかった恋愛を成就させたかったのかもしれない。


   4章 夢の館

     §1

 アーモンドの形をした目を潤ませて、女性が名前を呼んでいる。
 色素の薄い、波打つ髪。血色の良いふっくらとした唇。
 誠は頭を振って半身を起した。
 長い夢を見ていたような気がする。
 今ならわかる。彼女……志帆は葵だ。
 「大丈夫? 急に倒れたから……」
 不安げな表情。駆け落ちに失敗したあの日の姿が重なる。
 「大丈夫だよ、思い出しただけなんだ」
 目を見開いて誠を見つめる。その真摯《しんし》な眼差し。
 そこにはかつての葵のような怯えはない。
 志帆は葵でありながら、明らかに別人だ。
 「葵お嬢さんだったんだね」
 嬉しそうに志帆は誠に微笑む。抱きつくには羞恥があった。
 「でも、今は志帆よ」
 「うん。俺も今は龍一じゃない、誠だ」
 二人は並んで川岸を後に、屋敷に戻る。
 失われていた過去を葬り去り、現実を生きるために。

 屋敷に戻った二人は過去を語り合った。
 「あなたは酷い人だわ。あの時別れではなく、必ず生きて帰ると言って欲しかった」
 「君が情熱的すぎたんだよ。お嬢さん」
 「もう!お嬢さんじゃなくて、志帆よ!」
 「そうだね、葵お嬢さんはもっとおしとやかだった」
 「どうせ、あんなに上品じゃありませんとも!」
 「いや、可愛いって言ってるんだよ」
 真面目なのか、ふざけているのか、とりあえず二人は幸せそうだ。

 その頃、廊下の端で洋は真帆に詰め寄っていた。
 「亜希さん、あの絵をどこへ隠した!?」
 狂気を帯びた眼差しが怖くて、真帆は身じろいだ。
 「私は真帆よ!」
 「葵さんの最後の絵なんだ、アレ以上の傑作は描けない!」
 「知らない!!」
 「何故隠したんだ!」
 真帆は隙をみて、洋から逃げ出した。
 何を言っているのかわからない。
 「絵」とは何のことだろう?
 真帆にも思い出せていないことがあったのか。
 過去に囚われた人々の想いを乗せて、時間だけが流れていく。
 洋が何を求め、思い出させようとしているのかが、真帆にはわからない。
 思い出してどうするのだろう?
 過去は過去で、今ではないものを。
 思い出せないのは、思い出す必要がないか、思い出さない方がいいからだ。

 そんな真帆の苦悩も気付かず、志帆は真帆の髪を飾っては、楽しそうに過ごしていた。
 「真帆が彼を連れてきてくれるなんて思わなかったわ」
 「偶然だし……」
 「偶然も必然よ!」
 「彼ね、思い出してくれたのよ!嬉しいわ」
 会話をしながら、鏡を見た真帆は凍りつく。
 そこには自分ではない別の顔が映っていた。
 ゆるくウェーブのかかった髪。そこに飾られている髪飾りはあの時の葵のものだ。
 これは自分ではない!
 今は死人となった葵……?
 胸の動悸《どうき》を抑《おさ》えながら、彼女は髪飾りをはずし、ブラシで髪をすいた。
 まっすぐな黒髪が鏡にうつる。
 そして……
 真帆は気付いたのだ。
 否、思い出した。
 自分が過去を封印した、その記憶を!
 涙が浮かび、頬を伝って顎からこぼれた。
 「真帆?」
 「ごめんなさい……!」
 「え?」
 「あたし、恐くて…… 思い出さないようにしてた」
 志帆が真帆の顔を覗き込む。
 「無理して思い出さなくてもいいんだよ?」
 真帆が首を振る。
 「でも思い出したの。絵と鍵の場所」
 「!」
 「あたし、どこの鍵だか分からなかった。葵さんの秘密に触れるようで恐かったから封印したの」
 二人の良く似た視線が交わる。
 「じゃぁ、日記を読まなかったのね?」
 穏やかに志帆は真帆を見つめ、真帆はかすかにうなづいた。
 「怒ると思ったの?」
 真帆はそれには答えず、無言でうつむいた
 志帆は葵がかつて浮かべた、悲しげな微笑を浮かべていた。
 「宝探し…… してみようか? 葵の本心が分かるわよ」
 「嫌、怖いの!思い出したくない!」
 向きを変えた志帆は、真帆を後ろから抱きしめた。
 「全てを終わらせたいのよ」囁くような声に、真帆は志帆の手を握り泣き続ける。
 その先には何があるのだろう?
 

     §2

 岬の灯台に登った真帆は、ゆっくりと、壁の一部を壊した。
 そこには、失われた洋の絵と一つの鍵があった。
 葵が無くなった直後に完成した、葵の死姿。
 亜希はその完成度の高さゆえに、屋敷の呪いを感じて、絵を封印したのだ。
 その絵を見る誠の脳裏に、色々なことが流れていく。
 初めて出会った葵。屋敷の窓から外を眺める姿は、物語のお姫様のようだった。
 一緒に駈け落ちしようとしたとき、葵はかくまきで目立つ髪を隠していた。
 受け取った一枚のハンカチ。
 「俺は……」
 その様子を真帆は切なげに見つめた。
 「葵お嬢さんは俺を待っていたのか?」
 絵を見る、誠の頬にひかるものがあった。
 「これが彼女の最後だったんだな」
 葵…志帆の想いの大きさに、誠は押しつぶされそうだった。しかし、彼は無意識で知っていた。
 自分も彼女を探していたことに。
 「志帆ちゃん。俺と来るかい?」
 少し時間がたった後に、誠は志帆の方を向いた。
 それはかつて、龍一が葵に言ったセリフだ。
 しかし、志帆は迷わなかった。  
 「勿論だわ!今度は新しい生き方をするのよ!」
 「幸せにする自信はないよ」
 「かまわない。幸せは自分で掴むものなのだから!」
 抱きつく志帆を愛しげに見つめ、誠は洋を見た。
 しかし、洋は二人に関心を示す事無く、絵だけをみつめていた。
 絵に対する異常といえるまでの執着心。
 洋は葵本人ではなく、屋敷と絵を求めていたのだ。
 絵を受け取った洋は、最愛の恋人に出会ったように、絵を見つめ、屋敷へと向かった。
 その後を皆が追いかける。
 志帆と真帆は、葵の部屋のクローゼットの奥にあった金庫の鍵を開けた。
 一冊の日記帳と亜希宛の手紙が一通。
 日記には、亜希への憧れと龍一への想いがつづられていた。
 屋敷に生まれた宿命を受け入れきれずに、自ら命を絶ったその日付で日記はおわっている。
 そして手紙。

   亜希へ
  私が龍一さんと出会えたのは、そして、その想いを積み重ねられたのは、亜希、あなたのおかげです。
  でも、この手紙を読む頃、私はもう屋敷の娘としての生涯を切り捨てて、生きてはいないでしょう。
  一番のお気に入りだった着物と、龍一さんの遺品であるハンカチを胸に、私は海に帰るのです。
  海は龍一さんの心。
  私は彼の元へと行くのです。
  どうか、悲しまないでください。
  私は亜希、あなたが羨ましかった。貴方の奔放さに憧れていました。
  私がいなくなった後も、その明るさを失わないでほしい。
  私にとって、自慢の妹なのですから。
  できるならば、生まれ変わっても姉妹として生まれたい。
  そして、この屋敷に皆で集まり、今を昔話として語り合いたいものです。
  夜が明ければ皆が目を覚ましてしまうでしょう。
  私はひっそりと行きます

 短い手紙だが、亜希に対する恨み言は一言もなかった。
 真帆が恐れる必要はなかったのだ。
 それでも、真帆は罪悪感から逃れずにいた。
 その埋め合わせように、彼を彼女の元へ連れてきたのか。
 ガタンという物音に、忘れていた洋の存在を思い出す。
 洋は葵の部屋の絵をはずし、新たに得た絵をそこに飾った。
 「これで全ては完全になった……」
 屋敷に囚われた哀れな人。
 偽りの絵画を外し、本当に飾りたかった絵を飾った。
 葵の絵を見たとき、亜希は耐えられなかった。
 あの葵さんを冒涜《ぼうとく》してると思った。
 葵への贖罪《しょくざい》の気持ちかもしれない。
 そのとき、家は大きく揺れた。
 ゴゴゴゴ……
 屋敷を揺らすような響きがとどろく。
 完全な姿となった屋敷は、崩壊することで全てを無に帰する。


 
   終章

 「皆さん、外へ!」
 裕也が叫んだ。
 しかし、洋は部屋に留まり、裕也も玄関の前で立ち止まり、外へ出る気配がない。
 裕也は屋敷と共に消えるつもりなのだ。
 哀れにも屋敷に囚われた洋と共に。
 そのとき、海人がトコトコと裕也に向かって歩き出した。
 外を指差し。
 「あっち、こっ!」
 「え? あっち?」
 幼い、まっすぐな瞳に見つめられ、裕也はうろたえた。
 付け足すように、真帆は叫んだ。
 「今の裕也さんにも、大切な物があるはずだよ。館に、過去に囚われて忘れているだけんなんだよ。」
 大切なもの……。
 過去は今終結しようとしている。そして今、新しい人生が待っているのだ。
 ふと裕也は空を仰いだ。
 青い空に浮かぶ、白い雲。
 こうして、空を見たのは、いつ以来だろうか。
 続けて志帆も叫ぶ。
 「私は、葵だった頃も、感謝こそすれ貴方を恨んだことは一度もないのよ!」
 許しの言葉に視線を皆の方へと向ける。
 必死な様子で迎え入れようとする姿に、嘘はない。
 裕也は微笑み、海人の手をとって屋敷の外へと出た。 
 その後ろで、屋敷がまるで砂の城のように、崩れてゆく。
 洋の高笑いが聞こえるような気がして、志帆は屋敷を見つめている事ができなかった。
 もし、龍一が現れなかったなら、葵は自然と洋のものとなっていただろう。
 それがかなわないと知って、洋は壊れていったのだ。
 洋への罪悪感と、龍一と再会できた喜び。
 どちらも浅い感情ではない。

 「裕也さん……」
 「北原孝志《きたはらたかし》だよ」
 裕也…いや孝志ははどこかすっきりしたように笑顔を浮かべた。
 「再会するために、今を生きるよ」
 「これからどうするの?」
 真帆は孝志から受け取った、海人を抱き上げて言った。
 「忘れられてるかもしれないけど、子供に会いたいな」
 「子供?!」
 照れくさそうに微笑む洋介。
 「小学生なんだ」
 子供がいてもおかしい年齢ではない。実際真帆にも海人がいる。
 それでも、結婚していたのはショックだった。
 初めから、今生では縁はなかったのか。
 「次は迎えに行くから、待っていて下さいね」
 「うん……」
 歯切れ悪くうなづく真帆を怪訝そうに裕也が見下ろす。
 「でも、長く待つのは嫌いだからね!」
 見上げた真帆に裕也は破顔した。
 「ええ、今度は早く見つけます!」
 二人は再会を誓って別れた。
 誓いは永遠のもの。かならず来世では果たせるだろう。

               了